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二代目・芝川又右衛門 〜「寿宝堂」と「香山集」〜

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1932(昭和7)年、傘寿(八十歳)を迎えた二代目芝川又右衛門は、「寿宝堂」建設と「香山集」の出版を記念事業として行います。


「寿宝堂 開眼式記念撮影」(千島土地株式会社所蔵資料 P11-044)
「寿宝堂」は二代目又右衛門が隠居後に暮らした甲東園邸内に建てられたもので、博物館明治村に移築された芝川又右衛門邸やその増築部分同様、建築家 武田五一により設計されました。

これは、二代目又右衛門の父・初代又右衛門と母・きぬが芝川家事業を興す際の創業の辛苦を思い、その恩恵に浴する後世の子孫が末永く祖先に対する感謝の念を忘れないようにと祖先の位牌を奉安する持仏堂として建てられたものです。

1932(昭和7)年3月2日に地鎮祭を行い9月30日に竣工、翌1933(昭和8)年8月5日に本伝寺(大阪市北区)の住職を招いて本尊の観世音菩薩*1)の開眼式が執り行われました。




「香山集」は「心経両便」、「自警訓話」の和綴じの本2冊からなります。

「心経両便」は、文人画家の田能村直入(1814-1907)により執筆された般若心経の国字解(漢文を日本文で漢字仮名交じりにして平易に説明したもの)です。般若心経の趣旨を会得したいけれど漢文の素養がないためそれができないと嘆く知人のために、田能村直入が「平話ノ如ク解易キヲ宗」として執筆したもので、上梓されないままになっていたものを二代目又右衛門が印刷しました。

田能村直入は芝川家との親交があつく、晩年は須磨の芝川別邸に長期滞在していたこともあったそうで、初代又右衛門の号・百々(どど)は芝川家屋号の「百足屋」にちなみ、田能村直入がつけたのだとか。


(千島土地株式会社所蔵資料 P11-048)
先述の芝川又右衛門邸のホールには、「田能村直入先生、夫人」と記されたこの絵画が掲げられていたこともありました。


もう1冊の「自警訓話」は、壮年の頃に読んだ「商家韜畧*2)」を商家の自警となる内容であると感じて二代目又右衛門が書き写しておいたものです。書き写した時から50年以上の時間を経ているものの、その根底、精神において今尚戒めとすべきところがあるとして印刷されました。

「香山集」は親族をはじめ、芝川店店員や知人に贈呈されますが、その際に添付された書簡には「持仏堂を建立候に付其記念として」と記されるのみで、二代目又右衛門の傘寿記念であることには一言も触れられていません。


これは二代目又右衛門が80歳を迎えたことが世に流布し、人々を煩わせるのを避けるための心遣いであったと言います。

この他、三田町、西野上村、福島村、鷲林寺村、柏堂村などの甲東園周辺の小作地の小作人には、農具購入の資金も贈与されました。80歳の祝賀に、お祝いをいただくのではなく差し上げるというのは、現在ではあまり馴染みのないことのようにも思われますが、80歳が大変な長寿であったこの当時、この年まで元気で生きられたことへの感謝の気持ちが、今よりずっと強かったのかも知れませんね。


*1)この観音像について「芝蘭遺芳」には「藤原全盛期の作にして、興福寺千体物の一体にして同時代優秀なる作と称され国宝にも擬せられ得るものにして・・・」とあり、大変に由緒のある像であることが伺えます。
*2)韜畧(韜略・とうりゃく):古代の兵法書「六韜三略」の略。転じて兵法のこと。


■参考資料
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「芝川得々翁を語る」、塩田與兵衛、1939


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

二代目・芝川又右衛門 〜もうひとつの「香山集」〜

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前回のブログでは、二代目又右衛門の傘寿記念に印刷された「心経両便」と「自警訓話」からなる「香山集」をご紹介いたしましたが、当社社内にはそれとはまた別の「香山集」があります。


こちらの「香山集」は、先述の「心経両便」、「自警訓話」の2冊に「得々和歌集」、「得々詩集」、「得々俳句集」の3冊を加えた“ゴージャス5冊版”。

和歌集、詩集、俳句集は、それぞれ得々(二代目又右衛門)が和歌、漢詩、俳句を学んでいた折の作品を集めたもので、書類整理の際に筐底にしまってあったものを側近の強い勧めにより印刷したものです。いずれも学習途上の作品で、二代目又右衛門はこれを印刷することにやや抵抗があったようですが、移り変わりの激しい時代の中で昔を偲ぶよすがになればとの思いもあって製本に踏み切り、親族や芝川店店員などより身近な人々に配られました。



さて、二代目又右衛門が修めた習い事については、「芝川又右衛門事歴」に記述があります。

それによると、幼い頃より漢籍を河野春颿に師事し、春颿帰郷の後は浦上三石に、三石没後は田中牛門*)に学びました。牛門には漢詩と共に和歌についても教えを受けており、「得々詩集」、「得々和歌集」は牛門に師事していた頃の作品を集めたものです。


山内愚僊筆「田中正文先生肖像」(千島土地株式会社所蔵資料 P11-049)

俳句は1922(大正11)年、70歳の頃に八千坊支仙に入門して2年間学びます。「得々俳句集」はこの頃の作品を集めたものですが、本邸のあった西宮甲東園や須磨の別荘をはじめ、京都、箕面、高谷宗範の「木幡山荘」などで詠まれている他、「宝塚少女歌劇を見て」作句したものもあり、当時の暮らしの一部を垣間見ることができるという意味でも興味深いものです。 


*)田中牛門
名は正文、通称 新太郎牛門と号し、別に千尋の舎竹影と称する。深く経義に通じ、旭道一、藤澤東涯等との交流があり、また和歌を熊谷直好に学んだ。世間で名を上げることを求めず、請う者があれば経書(儒教で重視される文献)、和歌を教え、1902(明治35)年2月16日、86歳で没。


■参考資料
「芝蘭遺芳」
http://blog.goo.ne.jp/chishima-archive/e/9fdfd9b0a570fbbf9d12d445e90482fc
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「芝川家記録抄 家長原簿」、近藤就運書


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芝川家の「家法」

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明治維新の時代の変動を乗り越えた日本の富豪や名門の家の中には一家の者が守るべき決まりごとを定めるところが多くありましたが、芝川家にもそうした文書が残されています。

現存するそれら史料の中で最も古いのが『瑞芝録』に収められている「家憲」と「規則」です。

「規則」は事業に関する取り決めを定めたもの。その冒頭に「今般示談の上、規則改正致し候につき…」とあることから、芝川家にはこれに先立つ何らかの決まりごとが存在したことがわかります。しかしながら、その内容がどのようなものだったのかは残念ながら知ることができません。

また「規則」の最後には「明治九年丙子一月元日」の記述がありますが、この前年に初代・芝川又右衛門が息子の二代目又右衛門に家督を譲っています。

一方「家憲」には日付の記載はありませんが、芝川家財産の運用・継承に主眼が置かれた内容であることから、「規則」と同じ頃、初代又右衛門の隠居に際して、初代又右衛門が自ら築いた財産を安定的に後世に受け継ぐために定めたものではないかと思われます。

初代又右衛門は芝川家入婿後、唐物商(貿易商)として財を成し、百足屋又右衛門(百又)の祖となり、1878(明治11)年から土地の購入を始めます。土地を購入したのは銀行にお金を預ける代わりに財産を保全する方策だったと言われていますが、1886(明治19)年には唐物商を廃業し、不動産業に転じました。

この芝川家の大きな転換の時期に定められたであろう「家憲」「規則」は、財産の維持・運用に対する初代又右衛門の基本的な考え方を窺うことができる貴重な史料なのです。



芝川家の「家憲」「規則」はこの後も時代に応じて改定されていったようで、社内には「芝川家々則」(昭和十七年十二月十日現行ニ依リ整書)や「芝川家則」(昭和三十七年四月一日より実施)も残されています。

前者「芝川家々則」がいつ頃成立したものであるかはわかりませんが、明治期に初代又右衛門により定められた「家憲」「規則」とは大きくその体裁を異にしており、またその内容には住友家家法との類似点が見られます。

日本では1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布前後から華族・商家・地主の諸家で家憲制定の動きがあったそうですが、その頃に成立した名門緒家の家憲の中には1882(明治15)年に制定された住友家家法の影響が色濃く見られるものもあります。

住友家家法制定に主導的な役割を果たした初代総理代人・広瀬宰平とも親交が厚く、また1892(明治25)年には芝川店支配人として住友から香村文之助を迎えるなど住友との関係が深かった芝川家においても、その家憲成立にあたり住友家家法を参考にした可能性は大きいと考えられます。

芝川家事業は広瀬や香村といった住友の人々との関係の中で明治20年代に経営の近代化が図られており、家憲についても、その頃に何らかの大きな変更があったのかも知れません。


■参考資料
「近代住友家法の成立・伝播と広瀬宰平」(住友史料館報 第三七号抜刷)、末岡照啓、平成18
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)
千島土地株式会社所蔵資料 B01-001 「芝川家々則」
千島土地株式会社所蔵資料 B01-002 「芝川家則」
千島土地株式会社所蔵資料 B01-004 「家憲、規則」


*追記(2010/07/05)*

この記事を書いた後日、『芝蘭遺芳』に芝川家の家法についての記事を発見しました。

それによると、恐らく1874-1875(明治7-8)年以前に初代・芝川又右衛門が「家憲」を定めたと記述されていました。これは「規則」にやや先立つ時期であるものの、やはり初代又右衛門の隠居に際した時期であることに変わりはないでしょう。

また更に興味深いのは、1893(明治26)年頃に二代目又右衛門が「家則」を制定し、それが『芝蘭遺芳』の筆者でもある店員・津枝謹爾の意見を容れて変更されたという記述です。

そのいきさつは以下のようなものでした。

制定された「家則」が店内で回覧された際、当時23歳の津枝謹爾は言葉が難しく内容に時代錯誤な点があると感じ、当時の支配人・香村文之助(1892(明治25)年に住友より芝川店支配人に就任)にそう意見したところ、香村も同感としてそのことを又右衛門に申し伝えました。又右衛門は本件に関し会議を招集し、結果として「家則」の起案が津枝に委ねられることになりました。津枝は住友家その他諸会社の定款、規則等を参考として成案を提出し、それが採用され、芝川家の「家則」として制定されたというのです。

後年、『芝蘭遺芳』の執筆に際して津枝は、今振り返ってみれば弱冠23歳の若輩者が発布された家法に向かって意見するなど無鉄砲で驚く外ないが、旧案の撤回に踏み切り、ましてや若造の自分に新たな起案を命じた又右衛門の雅量の大きさには敬服のほかないと、親しく仕えた亡き二代目又右衛門の人柄を偲んでいます。


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初代・芝川又右衛門 〜「芝川組」と「新芝組」〜

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「芝川組」と「新芝組」は明治時代に芝川又平(初代又右衛門)が開業した諸国荷受問屋です。諸国荷受問屋とは、生産地の荷主から送られた荷物を仲買人に委託販売する業者のことで、荷物の保管や荷為替を担保として金融業を営むなど、現在の倉庫業や銀行業に相当する業務を行うものもありました。

1879(明治12)年11月、芝川出店の名義で荷受問屋が開店します。川から船で運び込まれる荷物の積み下ろしが可能な浜付倉庫を備える必要があったことから、店は川沿いの大阪市西区立売堀に構えられました。

芝川家が出資したのに対し、実質的な運営を行ったのは、芝川又平と共に大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の理事を務めた加藤祐一です。加藤は東京の福沢諭吉に対し関西随一の新知識と言われ、五代友厚の片腕として活躍した人でした。

さて、開店後の諸般事務が一段落すると、2名の店員が手拭い、盃、扇子、風呂敷といった宣伝用品を持って山陽・山陰地方を中心に各地の有力商店を回り、開店披露と得意先開拓の営業活動を行います。なんと約2ヶ月で680余店を訪問したのだとか。

そんな営業活動の甲斐あって1880(明治13)年9月には独立経営の見込みが立ち、資本金6,000円の組合事業として「芝川組」が創立されました。社長は加藤祐一。出資金は芝川又平、加藤祐一、園田友七(芝川家別家)の3名がそれぞれ2000円ずつを出しますが、加藤、園田の2000万円は芝川家が貸付けていたことから、資本関係は従来と実質的には変わりませんでした。

事業は徐々に軌道に乗り、周防の半紙、薩摩の錫、石見の荒銅や鉄、長門の米など各地の多岐にわたる品物が取り扱われ、取引高も増加していきます。

しかしながら、1882(明治15)年になると入荷が次第に減少し、経営に翳りが見られるようになります。それに追い打ちをかけたのが、或る事件により社長である加藤が収監されたことでした。これにより加藤は組合脱退を余儀なくされ、「芝川組」は解散することとなります。

その翌月、「芝川組」の権利義務一切を引き継いで「新芝組」が創立され、新社長に就任した井上卯吉が中心となって経営の再建に努めますが、結局事業不振が改善されぬまま、「新芝組」は1883(明治16)年7月末日をもって閉店することとなりました。


■参考資料
「五代友厚伝」、宮本又次、有斐閣、昭和56
「投資事業顛末概要三 芝川組 新芝組」、津枝謹爾編纂、昭和8
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)


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大阪住吉別荘のその後

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以前こちらのブログでご紹介した大阪住吉の芝川家の別荘

前回は触れなかったのですが、実はこの別荘について資料中に「欧州大戦中に岡氏という東紡重役に売った」との記述があります。

「東紡」とは恐らく「東洋紡」のこと。東洋紡重役の岡氏といえば、芝川ビルご近所の近代建築「綿業会館」の建設にあたり100万円を寄付された*)岡常夫氏のことではと思い、以前から気になっていました。

それが今回、当社社員が地籍図や登記簿を調査してこの疑問を解決してくれました!

手がかりは資料中の「住吉神社北門の前」、「南海住吉神社横」という別荘の場所の記述。
まず1911(明治44)年の「大阪地籍図」で住吉大社周辺の土地を調べると、まさに北門付近に芝川又右衛門(二代目)が3筆の土地を所有していたことがわかります。




▲『大阪地籍図 市街及接続郡部』(明治44年発行)より

これを1931(昭和6)年、1977(昭和52)年の地図で確認したところ、現在は神社敷地内である下記の場所(第一本宮の奥:青いポイントの場所)と判明いたしました。






更に調べた地番について法務局で登記簿を確認したところ、この土地は1889(明治22)年に芝川又右衛門が取得し、第一次世界大戦中の1916(大正5)年に売却していたことがわかりました。そして気になる売却先は…予想通り「岡常夫」氏だったのです。

この地は1882(昭和15)年に現在の所有者である住吉大社に売却されています。




▲芝川家別荘があったと思われる場所周辺の様子(現在の住吉大社敷地内)


*)岡常夫氏(東洋紡績専務取締役)の「日本綿業の進歩発展をはかるため」との遺言により、ご遺族から寄付された100万円に関係業界からの醸出金50万円を加えた150万円を基金に綿業会館が建設されました。(「日本綿業倶楽部」サイトより


■参考資料
『市街及接続郡部 大阪地籍地図』、吉江集画堂地籍地図編輯部編纂、明治44
『市街及接続郡部 大阪地籍地図 土地台帳之部』、吉江集画堂地籍地図編輯部編纂、明治44
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939
『紫草遺稿』、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934


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芝川又之助と『紫水遺稿』 〜その生涯と昆虫採集〜

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昭和11(1936)年に芝川得々(二代目又右衛門)により発行された『紫水遺稿』は、大正5(1916)年に27歳の若さで早逝した二代目又右衛門の三男・芝川又之助の日記や、又之助が熱中した昆虫採集に関わる原稿、昆虫標本目録などを収めた3冊から成る本です。

この『紫水遺稿』を中心に、又之助の生涯を追ってみましょう。



又之助は明治21(1888)年に誕生しました。大阪伏見町の芝川本邸を中心に須磨の別荘や甲東園にもよく出かけ、長兄・又三郎の狩猟のお伴をしたり、山歩きをしたりと豊かな自然の中で育ちます。


▲子供時代の又之助(二列目左:千島土地株式会社所蔵資料P12-028)

又之助が昆虫採集に夢中になったのは北野中学校在学の頃。そのきっかけとなったのは1904(明治37)年の兄・又三郎の戦死でした。


▲北野中学在学時の又之助(千島土地株式会社所蔵資料P46-034)

又之助について次兄の又四郎が後年、生来頭が良くて大変敏感な性格だったと述懐していますが、尊敬する兄の突然の死は繊細な又之助に大きな衝撃を与えました。兄を喪った悲しみから気持を逸らそうと又之助は昆虫採集に取り組みます。

日本における昆虫学の先駆者・桑名伊之吉の著書『昆虫学研究法』との出会いなどがその熱意に拍車をかけ、又之助はどんどん昆虫採集の魅力に引き込まれていきました。

大学への進学にあたり又之助は農学部への進学を希望しますが、芝川家の男子として許されず、山口高等商業学校(現・山口大学)に進みます。卒業後は京都帝国大学法科大学選科で学び、こちらは体調の関係で中退を余儀なくされますが、実業界に入って後も昆虫採集に対する情熱は衰えることはありませんでした。

1915(大正4)年には結婚し、神戸住吉の反高林に自らが設計したものを建築家・武田五一にまとめてもらったという家を建てます。*)


▲1930年代後半頃の反高林の芝川邸
 写真の女性は義母の粕淵とき(千島土地株式会社所蔵資料P18-316)

1916(大正5)年には女児も誕生しますが、その数日後、又之助は腸チフスで27歳の若さで亡くなりました。



又之助が亡くなる前年の1915(大正4)年2月、又之助は野平安藝雄、江崎悌三、鈴木元治郎ら京阪の有志とともに昆虫学専門誌『昆虫学雑誌』を発行し、次いで発起人の一人として大日本昆虫学会の創立に携わります。当時関西では比較的昆虫採集に対する関心が高かったものの、昆虫学の専門誌や学会はまだなかったようで、又之助は会の委員を務め、記事を寄稿したりもしていました。


▲『昆虫学雑誌』第壹巻第壹号(大阪市立自然史博物館所蔵)



又之助の死後、又之助が発行に尽力したこの『昆虫学雑誌』には又之助への弔詞とともに写真と絶筆原稿が掲載されました。

 
▲『昆虫学雑誌』第二巻第二号(大阪市立自然史博物館所蔵)
 又之助への弔詞(左)と写真、絶筆原稿(右)

また又之助が採集した昆虫標本は甲東園芝川家別荘に保管され、又之助の北野中学の後輩で昆虫採集の仲間でもあった戸澤信義に管理が委嘱されます。1933(昭和8)年には戸澤の編纂により『紫水遺稿』(別巻)に「芝川家所蔵昆虫標本目録」としてまとめられましたが、標本は後に宝塚昆虫館*2)に移され、更に1979(昭和54)年には大阪市立自然史博物館に移管されました。

標本は宝塚昆虫館閉館後の保管状態が良くなかったことなどから、残念ながら現在、又之助が採集した昆虫標本の特定は難しいそうですが、又之助に献名された「シバカワツリアブ」、「シバカワコガシラアブ」、「シバカワトゲシリアゲ」の昆虫名は今も生き続けています。


*)この家の竣工時期は不明だが、又之助の遺児・弥生子によると、棟上げの時、既に又之助は亡くなっていたという。

*2)当時阪急の社員であった戸澤信義が社長・小林一三の「宝塚に新しい集客施設を」との命を受けて創設を提案。1939(昭和14)年に開館し、戸澤は館長を務めた。


■参考資料
芝川又四郎、『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』、1969(非売品)
芝川得々、『紫水遺稿』(乾・坤)、昭和11(非売品)
戸澤信義編纂、『紫水遺稿』(別巻)、芝川得々、昭和11(非売品)
江崎悌三、『江崎悌三著作集 第二巻』、昭和59
初宿成彦、「「宝塚昆虫館報」について」、『館報池田文庫 第26号』、平成17
初宿成彦、「芝川又之助」、『第34回特別展 なにわのナチュラリスト』、大阪市立自然史博物館、2005
長谷川仁、「明治以降 物故昆虫学関係者経歴資料集」、『昆虫』Vol.35,No.3、1967
野平安藝雄編纂、『昆虫学雑誌』第一巻第一号、大正4
野平安藝雄編纂、『昆虫学雑誌』第一巻第二号、大正4
野平安藝雄編纂、『昆虫学雑誌』第二巻第二号、大正5


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芝川家の『年酒記録』 〜芝川店の新年〜

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以前からずっと取り上げたいと思っていた史料がこちら。


『年酒記録(自明治三拾三年)』(千島土地株式会社所蔵資料B01-006)

年酒とは、新年を祝うお酒または年賀のご挨拶に見えたお客さまにおすすめるお酒のこと。この『年酒記録』は芝川家が別家と店員を招いて開催した「年酒」、いわゆる「新年会」の記録なのです。「年酒」は1900(明治33)年に始まり1941(昭和16)年まで、途中 明治天皇、大正天皇が崩御された大正2(1913)年、昭和2(1927)年のほか、忌中などの理由で抜けている年もありますが、ほぼ毎年開催されています。

最初の記録である1900(明治33)年の『年酒記録』には当日の段取りや各部屋の飾り付のほか、誰がどこでどんなお手伝いをするのかまでこと細かく記録されています。これを繙いて、当時の様子に思いを馳せてみましょう。



1900(明治33)年の「年酒」は1月24日の午後4時から、伏見町芝川邸にて行われました。芝川栄助、芝川照吉らの親族をはじめ、芝川店支配人の香村文之助ほか店員、「芝川紙製漆器工場」の技術者である間瀬正信など20人以上の方々に案内状が出されています。

まず来会者は芝川邸西側の心斎橋筋路次口(ママ)より邸内に入り、待合、茶室に通されます。

待合席、茶室の飾り付はそれぞれ下記の通り。
※■は判読不能文字

待合席
幅:其角ノ鶯ノ句 置物:完瑛十二月ノ巻 軸盆:青貝ノ唐物 屏風:高齢張リ交セ

茶室
幅:呉春蓬莱山 置物:住吉蒔絵硯箱 花生:信楽 銘ねざめ 花:椿、菜種
卓:一貫高簾 煙草盆:桐 火入:金ノ瓢 炉縁:高台寺 炭取:さざへ
香合:梁付蝦 水差:金陽 棗:梅花ノ絵 蓋置:紅玉香炉 茶杓:如心斎鵲鴒
茶碗:一入ノ黒さざれ石 替茶碗:萩 菓子鉢:赤絵ノ魁 菓子盆:唐物ノ独楽
茶:銘(記入なし) 菓子:腰高饅頭、千代万代

お茶室でのお点前の後は、本家座敷より2階の広間へ。

座敷飾り付
幅:旧宅ノ図 直城■ 花生:花木蓮

西茶ノ間飾り付
幅:雪中梅 玉峯筆

二階西ノ間
福引品陳列

二階広間飾り付
幅:伊川院 鶴ニ松ノ三幅対 卓:一閑平卓 香炉:青磁 置物:桐料紙文庫 花鳥絵
花生:銅大花生 花:梅ニ椿 置物:天然石台付 画帖:反古張り

2階広間では全員が席につき、寛政2(1790)年創業の老舗料亭「堺卯」から料理人が出張して用意されたお料理を楽しみます。

献立
一、座附雑煮:ノシ餅、カシハ、亀甲形大根、牛蒡、数ノ子、ゴマメ
一、三ツ組金鉢:当主ヨリ二ツ左右ニ廻シ退席■壱個納杯ニ廻ス
一、取肴:玉子厚焼、百合丸煮、鯛切リ焼、牛蒡ノ銭切リ、蒲鉾
一、吸物:鯛千切リ 初霜
一、茶碗寿シ
一、肴:白魚ノ佃煮、フキノ塔
一、作り:サゴシ、鮭
一、肴:酢カキ
一、たき出し:新こぐり、鰕の皮むき
一、氷もの:蜜柑

膳部
一、 焼物:鯛
一、 煮物:さわら、うど、椎茸
一、 汁:味噌 すり流し
一、 向ふ付:赤貝、大根、木のこ

お酒もいただいて、お腹もいっぱいになりそうですね。

さて、お食事をいただいた後はお待ちかねの福引です。
福引の品物には、吹寄せ干菓子、西洋菓子、コーヒー糖、鶏卵、朝日ビール、籠入蜜柑、みるく一鑵、正宗一本といった飲食物から、煙草入、煙管、櫛・笄、傘、羽織の紐、がま口、棕櫚箒、桶といった日常で使う品物、煎茶茶碗、支那製頭巾、硝子菓子器やご隠居(初代芝川又右衛門)筆の「富士の図」、「からすの図」といった絵画までが用意されたようです。これは大興奮しそう。お座敷で大いに盛り上がる参加者の姿が目に浮かぶようです。

さてこの「新年会」、明治年間は伏見町芝川邸で行われていましたが、大正に入ると福引はなくなり、浪華橋灘萬ホテル、今橋ホテル、北浜日本ホテル、中之島大阪ホテル、北浜野田屋、堂島ビル9階清交社といった会場で食事会が開催されるようになります。

最後に、当時のメニューを数枚添付して本記事の締めといたしましょう。


▲1924(大正13)年 灘萬ホテル


▲1935(昭和10)年 清交社


▲1940(昭和15)年 野田屋


▲1941(昭和16)年 宝塚ホテル


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茶室「松花堂」の建築

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西宮甲東園に別荘を構え、その周辺の整備を行った二代目 芝川又右衛門は茶道に造詣が深く、邸内に「山舟亭」、「松花堂」、「土足庵」の3棟の茶室を建て、度々知人を招いてお茶会を楽しみました。

「山舟亭」は1913(大正2)年に落成、続いて1920(大正9)年に「松花堂」を中心とする広間と茶庭が整備され、竣工年はわからないのですが「土足庵」という立礼式のお茶室も須磨の芝川別邸から移築されました。

これらは3棟とも取り壊されて現存しないと思っていたのですが、なんと!「松花堂」のお茶室は実は移築されて現存していたのです。

ひょんなことからこの事実が判明、移築先の「粟津神経サナトリウム」さまにご連絡したところ、松花堂の見学を快諾いただき、さっそくお邪魔して拝見して参りました。

* * *

現存する「松花堂」のレポートの前に、移築前の「松花堂」についてご紹介いたしましょう。

芝川家刊行の書籍によると、「松花堂」はもともと大阪・伏見町の芝川邸内に建っていたそうです。写真などは残っていないのですが、以前こちらのブログで幕末〜明治23年までの伏見町芝川邸をご紹介した際に掲載した芝川邸の平面図に付属した図面を見てみると、それがまさに「松花堂」の平面図であることがわかります。

▲伏見町芝川邸平面図(千島土地株式会社所蔵 F02-001-001)

図面からお茶室が独立して建っていた訳でなく別の建物に接続していたことがわかりますが、断片的な図面なので全体がどのようにつながっていたのかはよくわかりません。下記配置図に「茶室」の記述がありますがこれが「松花堂」だったのでしょうか。


▲伏見町芝川本邸見取図(千島土地株式会社所蔵資料 F02-003-002)

伏見町芝川邸では、「松花堂」で初代又右衛門がお茶を点てたりしていたそうですが、後に二代目又右衛門の別邸がある西宮甲東園に移築されることになります。移築工事は1916(大正5)年に起工*)、お茶室に接続する広間も建設され、太鼓橋の架かった池もある美しい庭園も整備されました。建物、庭園はともに芝川家と懇意だった茶人 高谷宗範(たかや・そうはん)の設計によるもので、その監督の下に造営が進められます。










▲甲東園に移築された茶室「松花堂」と付属広間の平面図、東西南北の立面図
(千島土地株式会社所蔵資料 K01-033-001〜005)

当時は関西で多くの立派な和風建築の建設が集中した時期で、職人さんの不足などの事情もあって工事には時間がかかり、これらが完成したのは1920(大正9)年のことでした。


(千島土地株式会社所蔵資料 P41-045)


(千島土地株式会社所蔵資料 P41-036)


(千島土地株式会社所蔵資料 P04-002)


(千島土地株式会社所蔵資料 P18-025)
▲「松花堂」と広間、茶庭

竣工時には新築お披露目のお茶会が14回、約2ヶ月に亘って開催され、71名のお客様をお迎えしたと言います。

「松花堂」と一連の建築は1975(昭和50)年頃、甲東園が住宅地に造成されていく中で解体されますが、幸運にも現在の所有者さんとのご縁があり、茶室「松花堂」は石川県に移築されることになりました。


そして現在…

病院の広いお庭の奥、ふもとの池に流れ込むせせらぎの水音が涼しげな小高い丘の上に、木々に囲まれた小さな建物が見えます。


この建物こそが、甲東園から移築された「松花堂」でした。


正面には「松花堂」の濡額が掛けられています。


移築前は木皮葺であったと思われる屋根は、現在は銅版葺になっています。


正面 観音開きの扉を開けると土間があり、


その奥に3畳のお茶室があります。

一見したところ炉は切られておらず、風炉が置かれていました。

襖の絵は茄子と実のついた枝。
 

地袋にはかわいらしい引き手(把手?)が。
 

天井には、芝川又四郎の「(松花堂には)天井も紙が張ってあって、子供心にも変わったものだと思っていた」という回想の通り、紙が張られていました。


実はこの「松花堂」は、「八幡西村氏邸内の松花堂昭乗の茶室の写し」であると言われています。松花堂昭乗は一流の文化人としても知られる江戸初期の僧侶で、晩年に「松花堂」(以後、区別のため「八幡松花堂」とします)という名の方丈を建てて侘び住まいをしました。その後「八幡松花堂」は所有者が変わり、数回の移築の後(その間、一時西村氏の所有となっていた)、現在は京都府八幡市の「松花堂庭園・美術館」に草庵茶室「松花堂」として保存されています。この「八幡松花堂」の天井もかつては紙張りで(現在は網代)狩野永徳による絵が描かれていたのだとか。*2)

お茶室を出ると板敷きで右手に茶道口があり、


その奥は水屋になっています。


逆にお茶室を出て左手には躙口が設けられていました。


ここは移築前、広間につながる廊下だった部分です。私はお茶室にはあまり詳しくないのですが、躙口を入ると畳でなく板間というのはあまり見たことがなく珍しい気がします。


現在、図面の広間につながる“廊下”と“物入”はひとつの空間となっていますが、その間の壁は切り取られている様子ですし、


天井も一方は切妻(廊下側)でもう一方は方流れ(物入側)と形が異なっています。
 

それに、物入の廊下側の柱にはかつて扉がついていたであろう痕跡も見られます。


* * *

さて、甲東園芝川邸縁の「松花堂」、わずか数畳の小ぶりな建物であるにも関わらず、その物語は尽きることがありません。しかしながら過去最長級のとても長〜い記事となって参りましたので、今回はこのあたりでおひらきとさせていただきましょう。

それにしても、もう失われてしまったと思っていた建築が、こんな素敵な環境の中で“第三の人生”(?大阪伏見町芝川邸、?西宮甲東園芝川邸、?石川県「粟津神経サナトリウム」)を送っている姿は、なかなか感動的なものです。

所有されている方は、最近 建物の傷みが気になっているとおっしゃっていましたが、これからもこの「松花堂」のお茶室が自身の歴史を語る証人として生き続けてくれることを願わずにはいられません。


この度は現在の所有者さまの特別のご厚意でこうした記事をアップさせていただいたものです。「松花堂」は病院敷地内にあり、非公開の建物です。基本的に見学はできませんのでご了承下さい。


*)千島土地株式会社所蔵資料「大市山新築設計図」による。芝川家刊行書籍『芝蘭遺稿』には、起工は大正7(1918)年とある。

*2)この「八幡松花堂」のほか、大阪市網島町にも松花堂昭乗ゆかりのお茶室「松花堂」(「桜宮松花堂」)が現存しています。こちらは19世紀初頭に大坂の豪商 加島屋の樋口十郎兵衛によって建てられ、後に解体されますが、明治期に富商 貴志弥右門がその解体材を使って再建。終戦後大阪市の所有となり現在に至ります。なお「桜宮松花堂」を再建した貴志弥右門の孫は、芝川家とも交流のあったヴァイオリンニスト・貴志康一です。


■参考資料
『大阪市内所在の建築文化財 大阪市桜宮松花堂調査報告』、大阪市教育委員会事務局、2002
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939
『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』、芝川又四郎、1969(非売品)


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

芝川家のお茶会 〜大正2年の甲東園茶会〜

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茶室「松花堂」の建築 の記事冒頭で少しご紹介いたしましたが、西宮甲東園の別荘敷地には、明治44(1911)年竣工の武田五一設計の芝川又右衛門邸内にお茶室が設えられた他、数棟のお茶室が建設されました。

中でも最初に建てられたのが大正2(1913)年に落成した「山舟亭」です。




茶室「山舟亭」(上)と露地(下)(『茶会漫録(第四集)』より)


(千島土地株式会社所蔵 P41-038)


(『芝蘭遺芳』より)


(「甲東園八勝図」より)

「山舟亭」は茶人・高谷宗範の設計監督により、その庭園は耶馬渓の趣を多分に取り入れたものであったと言います。
資料により少し趣が異なって見えますが、これは恐らく撮影時期の違いによるものと思われます。

というのも、この茶室は山の中のいたるところの風物の推移に応じて舟のように移動させることができるから「山舟」と名づけた、との記述も残っており、
甲東園の敷地内で移築された可能性があるのです。移動式茶室と言ってしまうにしてはしっかりし過ぎた建築のようですが…。
いずれにせよ、『茶会漫録(第四集)』は1924(大正3)年に発行されているので、上の2枚が竣工当時の様子に最も近いのではないでしょうか。


さて、こちら「山舟亭」において、大正2(1913)年4月、盛大なお茶会が開かれました。

5日間にわたって開かれたお茶会には、1日に5人ずつのお客様をご招待しており、益田孝、鈴木馬左也、高谷恒太郎、戸田弥七、村山龍平、上野理一、住友吉左衛門、香村文之助、嘉納治郎右衛門、嘉納治兵衛、馬越恭平、野崎廣太…などなど、東西の名高い数寄者25名が招かれました。

このお茶会は桃の花が満開になる時期に合わせて計画されたようで、主催者の芝川又右衛門は体調を崩したにも関わらず、又右衛門の師匠である茶道裏千家の中川魚梁が亭主を務めて予定通り開催されました。最終日の4月25日に参会した野崎広太の茶会記*)によると、残念ながら前夜の雨で花が散ってしまったため、芝川家では急遽 須磨芝川邸より持参した小田海僲「春夜桃李園の図」を待合の洋館2階座敷の床に掛けたといいます。


それでは、最終日のお茶会の様子を前出の野崎広太の茶会記に沿ってご紹介いたしましょう。

当日は前夜の雨は止み、一点雲なき快晴に。まだ阪急電鉄西宝線(西宮北口−宝塚)が開通していなかったため、招かれた人々は西ノ宮駅から又右衛門が用意した人力車で大市山の芝川家経営地に向かいます。

一行は又右衛門邸洋館2階の待合に通され、高谷恒太郎による挨拶の後、前出の小田海僲「春夜桃李園の図」など飾付に対するひと通りの説明が成されました。この時、窓外の景色についても紹介があったそうなのですが、なんと当時は洋館2階の窓から六甲山、甲山はもちろんのこと、箕面の山、東南の方向に連綿たる摂河泉(摂津、河内、和泉)の諸山脈まで望むことができたのだとか。なんと素晴らしい景色でしょうか!

その後、一行は腰掛へと移動し、間もなく亭主の中川魚梁に迎えられ、お茶室へと案内されます。蹲にかかる筧の水は渓流となって音を立てて流れていたということで、心洗われる情景が目に浮かぶようです。

お茶室には宗範の筆による「山舟」の濡額が掛けられています。宗範について、野崎は「大徳寺の和尚か」と記述していますが、高谷恒太郎の号が宗範であり、「山舟亭」は高谷が設計監督したお茶室であったことを考えると、この濡額は高谷の筆によるものだったのかも知れません。*2)

そしていよいよお茶室の中へ。炭手前の後に一同懐石を楽しみ、腰掛に移ってお菓子をいただいた後、「恰も山寺の鐘声を聞くに似た」銅鑼の合図で再度席入りをします。

濃茶、薄茶を喫し、戸田や春海*3)、高谷恒太郎も加わっての歓談の後、お茶会はおひらきとなり、一行は高谷の案内で水屋、露地を見学して茶室を後にします。

洋館広間の一室へ戻り、ひと息ついた後、一行は銅鑼の音に送られながら夕暮れの甲東園を後にしたのでした。


この度はご紹介を省略いたしましたが、茶会記録には待合、腰掛、茶室の飾付から懐石、濃茶、薄茶で使用されたものまで、全てのお道具が記載されています。またそれらに対する感想も詳しく述べられており、その中では、交趾の蓋と呉州の身、そして呉州の蓋と交趾の身の組み合わせで使用された石榴の香合が「稀代の名品」であると賞賛される一方で、古色蒼然とした釜と炉縁に銅炉が新しいのは不釣合いだとか、茶室「山舟亭」で懐石に藍呉州舟形の向付、茶杓の銘が「鉄の舟」では、舟が多過ぎて得心できないなどといった辛口の意見も忌憚なく述べています。

更に、当時これが新聞に掲載されたというのですから、お茶会の亭主はさぞかし細心の注意を払ってお茶会当日に備えたことでしょう。まさにお互いに真剣勝負。このような切磋琢磨の中で、近代茶道の黄金期が築かれていったのでしょうか。


*)『茶会漫録 第四集』に「甲東山荘の茶会 芝川又右衛門氏の催し(大正2年4月30日記)」として収録。野崎広太は参席した茶会での見聞記録を、1905(明治38)年以降、自らが主催する「内外商業新報」(現「日本経済新聞」)に掲載。後年それらを『茶会漫録(全12冊)』にまとめ、発刊した。

*2)「内外商業新報」の記事を写したとする芝川家の記録(『芝蘭遺芳』)にはこのように記述されていますが、「内外商業新報」の記事をまとめて1914(大正3)年に発行された『茶会漫録(第四集)』では、「宗範の筆、宗範は即ち高谷今遠州(筆者注:高谷恒太郎のこと)也。」とあることから、書籍にまとめる際に修正されたものと思われます。

*3)道具商・谷松屋戸田商店、書画骨董品商・春海商店の関係者か?


■参考資料
『茶会漫録(第四集)』、野崎広太、中外商業新報社、1914
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939


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所蔵写真「二楽荘」

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明治42(1909)年、神戸六甲山麓岡本に西本願寺22世法主・大谷光瑞の別邸「二楽荘」が竣工しました。

大谷光瑞は中央アジアに探検隊を派遣して探検・調査活動を行いましたが、
二楽荘本館は支那室、印度室、アラビヤ室、英國室など各国の様式にちなんだデザインの12室からなる建物で、
設計監修を行った建築家・伊東忠太をして「本邦無二の珍建築」と言わしめた建物でした。

芝川家には、その二楽荘の写真が残されています。
これらはいずれも二楽荘竣工の1ヶ月ほど前の明治42(1909)年8月15日に撮影されたものです。


▲二楽荘本館(千島土地株式会社所蔵資料 P12-053)
建物前の建築資材が工事中であることを物語っています。
 

▲二楽荘庭園(西半分)(千島土地株式会社所蔵資料 P12-054)
庭園の植物もまだまだ成長過程のように見えます。


▲二楽荘本館にて(千島土地株式会社所蔵資料 P12-046)
本館のどこで撮影したものでしょうか。
中心の詰襟姿の青年が芝川又四郎です。当時は京都帝国大学の学生でした。
この写真の裏面には写っている人物名が記されています。
後列右の男性は「柱本氏」とあるのですが、大谷光瑞の側近であった柱本瑞俊でしょうか?


神戸六甲の地で栄華を誇った二楽荘も、大正3(1914)年に久原房之助の手に渡り、
竣工から30年弱の昭和7(1932)年に不審火により焼失してしまったのでした。


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「宝塚少女歌劇」関連資料

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大正3年に第一回公演が行われて以来、多くの人々の心を捉え、人気を博した宝塚少女歌劇(現・宝塚歌劇団)。阪神間で青春を送った芝川弥生子(芝川又之助長女、芝川家6代目当主・芝川又四郎の姪にあたる)もその華やかな舞台に魅了された一人でした。

今回は弥生子所蔵資料の中から、昭和10年代を中心とする宝塚少女歌劇関連資料をご紹介します。


●しおり&絵はがき
日本的なものから外国のものまで非常に多彩な演目に驚かされます。







●「歌劇」
最も歴史の古い宝塚歌劇団の月刊機関誌。1932(昭和7)年を境に表紙がイラストからスターの顔写真に変わりました。


●「宝塚グラフ」


●「東宝」
東宝は東京宝塚の略。昭和9年、有楽町に東京宝塚劇場が完成し、宝塚少女歌劇団は東京進出を果たしました。
昭和18年発行の「東宝」誌の厚みは前年の半分ほどですが、これはいよいよ悪化した戦局の影響でしょうか。


●「歌劇脚本集」


●スターポートレイト集
トップスターとして戦前の宝塚歌劇の黄金期を支えた小夜福子と葦原邦子。装丁デザインが素敵ですね。


●レコード


●スクラップブック
弥生子が大ファンだった佐保美代子に関する記事が多数見られます。




●弥生子アルバム
弥生子のアルバム写真の中には、宝塚少女歌劇の運動会などで撮影されたと思われる写真も収められています。




●歌劇日記
宝塚少女歌劇団発行のとても魅力的な装丁の日記帳。観劇の感想のほか、弥生子の日常についても記されています。


●海外公演関連資料
宝塚少女歌劇団は、昭和13年に初の海外公演(ドイツ、イタリア、ポーランド)を行い、翌年昭和14年にはアメリカ公演も行いました。


写真中のナチス・ドイツの旗が時代を物語ります。

 
●40周年関連資料
昭和29年、宝塚歌劇団は40周年を迎えました。
この年の9月、元スターの佐保美代子が青函連絡船洞爺丸の事故により死去します。彼女のファンだった弥生子に与えた衝撃は大きく、以後、弥生子は宝塚歌劇から遠ざかることになったといいます。




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安田善次郎編『明治成功録』

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奉公人から身を起こし、銀行、損保会社、生保会社などを次々に設立して安田財閥を築き上げた安田善次郎。その安田翁は、自身の古希の記念に『明治成功録』を制作します。

『明治成功録』は明治時代に実業界で成功を収めた24氏を正客、政界の巨人10氏を客員としてそれぞれの肖像写真と筆跡を集めたもので、明治39年秋から3年の歳月をかけ、明治42年末に完成しました。

掲載された方々は次の通り。初代芝川又右衛門も栄えある正客の一人として掲載されています。

○正客
渋澤栄一
川崎正蔵
薩摩治兵衛
浅野総一郎
片倉兼太郎
岩崎弥之助
益田孝
平沼専蔵
高田慎蔵
川崎八右衛門
藤田伝三郎
前川太郎兵衛
村井吉兵衛
芝川又右衛門
諸戸清六
森村市左衛門
大倉喜八郎
安田善次郎
原善三郎
若尾逸平
神野金之助
古河市兵衛
岩崎弥太郎
茂木総一郎(惣一郎の誤りか)

○客員
東郷平八郎
桂太郎
井上馨
松方正義
大山巌
山県有朋
伊藤博文
木戸孝允
岩倉具視
三条実美

制作に際し、安田翁は各家に親書を送ってそれぞれの揮毫と近影を求めました。当初、正客は30氏の掲載が予定されていたそうですが、6家から資料が得られず、24氏の掲載となったといいます。いずれも全国から選りすぐられた創業の偉人達でした。

『明治成功録』は34部が作成され、完成後は各家に1部ずつ贈られたといいます。

しかしながら、安田翁より芝川家に贈られたであろう『明治成功録』の原本は見つかっていません。昭和19年に芝川家が刊行した書籍『芝蘭遺芳』に『明治成功録』についての記述があったことから、これまで社内はじめ国内の図書館や一部関係先を探したのですが、結局見つけることができませんでした。


木箱入りの大変豪華な装丁のこちらは、実は原本を複製したもの。昨年、芝川弥生子の資料として見つかった1冊です。


同封されていた書簡によると、この複製本は昭和8年に二代目芝川又右衛門が父・初代又右衛門が掲載された本書を複写して10部を作成し、子孫に配ったうちの1冊とのことでした。作成部数の少なさを考えると、複製品とはいえ、本書は大変な貴重書に違いないでしょう。


▲森村市左衛門氏


▲安田善次郎氏


▲藤田伝三郎氏


▲渋沢栄一氏


▲三条実美氏


▲伊藤博文氏


▲東郷平八郎氏


▲芝川又右衛門

それぞれが思い思いの言葉を揮毫する中、1人、又右衛門は“絵”を描きます。これは京都の蒔絵師の家の生まれで絵の素養があり、隠居後、晩年は毎日のように絵を描いていたという又右衛門ならでは。柿と栗は、“桃栗三年柿八年”の諺に因んだ図案なのでしょうか。

それにしてもこれだけの人々の揮毫を集め、1冊の本にまとめるとは、さすが善次郎翁、なんとも粋な“古希記念”です。


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帝塚山の竹鶴邸と芝川邸

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以前の記事で、ニッカウヰスキー㈱創業者の竹鶴政孝氏の大阪住吉帝塚山の居住地について、あくまでも推測という形でご紹介いたしました。それは「帝塚山タワープラザ」(大阪市住吉区帝塚山中1丁目3-2)の南に竹鶴邸、その西隣に芝川邸があった、というものでしたが、後にこの推測が正しかったことがわかりました。

これは、2014年に放映されたNHKの連続テレビ小説「マッサン」放映を機に「すみよし歴史案内人の会」が中心となって調査をされた結果、明らかになったものです。

詳細は、「すみよし歴史案内人の会」のますの隆平氏が「大阪春秋 第161号」でご紹介しておられますので、そちらをご覧いただけたらと思いますが、当社所蔵の「給水装置申込書」の資料が、竹鶴邸の地番と、竹鶴夫妻がこの家に住み始めたと思われる時期を知るきっかけとなりました。


▲「給水装置申込書」
(千島土地株式会社所蔵資料G00991_301)
竹鶴政孝氏のお名前の漢字が違うのが少し気になりますが、こちらは記録ミスである可能性が高いと思われます。




▲帝塚山の芝川邸と竹鶴邸

大正5-6年頃
芝川又四郎が帝塚山に転居

大正9年11月
竹鶴政孝・リタ夫人がスコットランドから帰国
摂津酒造の阿部喜兵衛社長が用意した家(旧竹鶴邸Ⅰ)に住む

大正11年春
竹鶴政孝氏、摂津酒造を退社

大正12年春
竹鶴政孝氏、寿屋(現・サントリーホールディングス㈱)に勤務

大正12年12月頃
竹鶴夫妻が又四郎の借家(旧竹鶴邸Ⅱ)に転居

大正14年1月
竹鶴夫妻、山崎に転居

大正15年1月
芝川又四郎、神戸住吉に転居

又四郎の述懐には、芝川邸の近所に住んでいた竹鶴夫妻が、帝塚山学院初代学長の庄野貞一先生の紹介で芝川邸を訪れ、又四郎の所有地の上に家を建てて貸してほしいと依頼された、とあります。また、摂津酒造退社後、竹鶴氏が桃山学院で化学の教師をしていた折には、「試験の採点を手伝ったことがある」とも述べていることから、大正11年-12年頃に、竹鶴夫妻から依頼を受けた又四郎が、又四郎の父・又右衛門が建築家・武田五一を通してあめりか屋に建てさせた洋館を西宮甲東園から移築し、大正12年12月頃から、竹鶴夫妻が又四郎の借家に暮らし始めた…ということだったのではないかと推測しています。




▲帝塚山芝川邸
(千島土地株式会社所蔵資料P04_032)


▲芝川百合子(又四郎長女)、帝塚山芝川邸建物前にて
(千島土地株式会社所蔵資料P18_039)

帝塚山芝川邸の一部が写っている貴重な写真です。芝川邸の建物は、吉野の製材所で購入した杉の柱を使い、天然スレート葺きの屋根は、又四郎の注文により「将棋のこまみたい」な形であったと
いいます。

竹鶴邸、芝川邸は、建築図面も写真もほとんど残っていませんが、竹鶴家、芝川家の転居後も取り壊されることなく、新しい住人を得て使い続けられました。こちらは、昭和37年に全線が開通した「南港通(柴谷平野線)」の敷設計画図ですが、こちらの資料から、在りし日の芝川邸と竹鶴邸の様子を知ることができます。


▲「都市計画路線 平野柴谷線 平面図」
(千島土地株式会社所蔵資料Y02_001_005)


「南港通」の開通により、かつての芝川邸の敷地の一部は道路となり、芝川邸、竹鶴邸も今はともにもうありません。しかし、こうしてその場所が特定され、敷地内の様子が明らかになったことによって、竹鶴夫妻と芝川家の交流をより鮮やかに思い起こすことができるような気がしています。


■参考資料
『小さな歩み』、芝川又四郎、1969
『ニッカウヰスキー80年史 1934-2014』、80年史編纂委員会、2015
「大阪春秋 大161号」、新風書房、2016


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二代目・芝川又右衛門 ~日本女子大学校設立への関わり~

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2015年のNHKの朝ドラ「あさが来た」で注目された広岡浅子。加島屋・広岡家と芝川家は同じ大阪の財界人同士ですが、これまで当社の所蔵資料の中に、両家のつながりを示すものは見つかっていませんでした。

しかしながら、「あさが来た」の原作である古川智映子さんの『小説土佐堀川 広岡浅子の生涯』には、広岡浅子が支援した日本女子大学校(現・日本女子大学)の設立を賛助した大阪の財界人の一人として芝川の名前が登場しており、実際に日本女子大学には、芝川又右衛門(二代目)が設立に関与したことを証明する資料が残っていたのです。

今回はそれらの資料から、日本女子大学校への芝川の関わりについて見ていきたいと思います。



日本女子大学校設立者の成瀬仁蔵は、明治27(1894)年に米国留学から帰国した後、梅花女学校(現・梅花女子大学)の校長を務めていました。女子高等教育機関、現在でいう女子大学の設立を目標としていた成瀬は、明治29(1896)年2月に自ら考える女子高等教育機関の必要性を説いた『女子教育』を出版し、本格的に女子大学設立の準備活動を始めます。

成瀬が社会の各方面の有力者に賛助を求める中で、広岡浅子との出会いがありました。浅子は『女子教育』を読んで成瀬の理想に深く共感し、女子大学設立の熱心な後援者となったのです。

そんな中で、芝川にも発起人就任への依頼があり、『日本女子大学校創立事務所日誌』にその様子が記されています。


「日本女子大学校創立事務所日誌(明治29年)」(日本女子大学所蔵)

12月19日(水)
鴻池芝川両氏へ発起人勧誘に付 広岡ご主人御問訪相成たる処
両子(ママ)は未た女子大学設立の件に付御話し不承
従而賛助員承諾不仕との事に而空しく御帰宅相成たり
両氏の如き名望家先承諾するにあらされば
他の人々を取纏め候事仲々六ヶ敷とて御当惑の御様子
如何致とて宜敷哉。
広岡御夫人へも御相談の上至急何とか御主人迄御返辞相待申候云々

これによると、広岡ご主人(広岡浅子の夫・広岡信五郎のことか)が鴻池、芝川を訪問し、発起人、賛助員就任を依頼するも承諾を得ることができず、こうした名望家の承認を得られなければ、ほかの人々の説得も難しいと記されています。

発起人勧誘の中でこういった対応は決して珍しいことではなく、むしろ即座に賛同を得られるということは稀だったといいます。成瀬はこれと見込んだ人のところへは何度も足を運んで説得を試みたということですが、この広岡氏の訪問から2年後の明治31(1898)年の資料には、発起人欄に芝川又右衛門の名前が見られることから、経緯は不明ですが、最終的には又右衛門も発起人就任を了承したことがわかります。


「日本女子大学校 発起人、賛助員、賛成員名簿(明治31年)」(日本女子大学所蔵)

さて、こうして有力者に発起人就任を依頼する一方で、設立の資金集めも進められます。前出の『創立事務所日誌』には、芝川への寄附金依頼について、下記のような記事も見られます。


「日本女子大学校創立事務所日誌(明治32年)」(日本女子大学所蔵)

5月28日
伊庭貞剛氏は芝川又右衛門氏に寄付金勧誘の件を自ら申出てて受請ひくれぬ

住友の伊庭貞剛氏(明治33年に第2代住友総理事に就任)が芝川又右衛門の日本女子大学校への寄付勧誘を引き受けたと記載されています。懇意にしていた伊庭氏の勧めとあらば…と又右衛門も協力を前向きに検討したのではないでしょうか。

さて、当初設立地を成瀬と縁の深い大阪として準備が進められていた日本女子大学校は、天王寺界隈に5千余坪の用地を確保していましたが、「やはり東京に」という意見も根強く、数年の設立運動の中で、大阪設置は見直しを迫られることとなります。

大阪に設置するということを強調して出資を募っていたこともあり、在阪の出資者の多くは東京設置に反対しました。しかしながら、明治33(1900)年5月に設立地を決するための創立委員会が大阪で開催される頃には、大阪の出資者も女子大学を設立する国家的意義を十分に理解しており、いずれ時期を見て大阪にも設置するということで東京設置を容認しました。

この創立委員会には又右衛門も出席し、寄付(寄付の増額?)を申し出ました。最終的に又右衛門は、明治33年から5年間にわたり、年400円、合計2,000円を日本女子大学校に寄付しています。


「日本女子大学校 寄附金名簿」より(日本女子大学所蔵)


「日本女子大学校寄付礼状(明治33年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
創立委員長の大隈重信氏からの寄付に対する礼状

この大阪における創立委員会の結果は東京の出資者を大いに刺激し、広岡浅子の実家である三井家から東京目白台に5,520坪の土地が寄付され、ここに日本女子大学校が設置されることとなりました。

日本女子大学校は明治33年12月下旬に設立が認可され、翌明治34(1901)年4月20日に510名の生徒を迎えて開校式が執り行われたのです。




「日本女子大学校開校式案内状(明治34年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
芝川又右衛門と夫人宛に届いた案内状。開校式の式次第も記されている。


「感謝状(明治38年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
日本女子大学校理事長・成瀬仁蔵から発起人、創立委員に送られた感謝状

なお、日本女子大学校の設立予定地だった天王寺(大阪市東区清水谷東之町)の土地には、明治34年に大阪府として初の高等女学校である大阪府清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)が設立されました。女子大学の設置は叶いませんでしたが、候補地に女子の教育機関が設置されたことは、大阪の出資者達の思いに適ったことだったのではないでしょうか。


■参考資料
『日本女子大学校四十年史(非売品)』日本女子大学校、昭和17年
日本女子大学資料集
日本女子大学「深く知りたい成瀬仁蔵」
大同生命の源流 加島屋と広岡浅子「日本女子大学校の設立」


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「大縄地事件」

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2017年、大阪港は開港150年を迎えます。

安政5(1858)年の日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約調印を機に、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に大阪の開市が決まったものの、開市直後は幕末の混乱の最中で、貿易は殆ど行われませんでした。その後、運上所(税関)のある安治川上流の川口で居留地の整備が進められ、明治元(慶応4)年7月15日(1868年9月1日)に大阪港が開港したのです。

しかしながら河川港であった大阪港は水深が浅く、大型船舶の出入りに不便でした。そこで築港への機運が高まり、明治30(1897)年10月に天保山に港を新設する築港工事が着工します。この築港工事に際して生じたのが「大縄地事件」でした。



明治11(1878)年、芝川又右衛門が千歳新田50町歩を購入した際、千歳新田地先の大縄地も購入しました。大縄地とは、新田開発において開発(埋め立て)許可を受けた区域のことです。「大縄地事件」は、この大縄地に対する権利について、芝川が大阪市と争った事件でした。芝川の大縄地に関する書類は、本件が落着した際に大阪市に手渡されたため、社内に残された資料は限られていますが、それらをご紹介しながら、この事件について紐解いてみたいと思います。


▲千歳新田位置図(『千島土地株式会社設立100周年記念誌』p.37より)


▲千歳新田未開墾地(大縄地)地図 (千島土地株式会社所蔵資料 T02_092_002)


千歳新田地先の大縄地は、文政12(1829)年に、葭屋正七が地代金(上納金)を納めて、大坂代官・岸武太夫より開発を許可されたものでしたが、埋め立てされぬまま所有者が転々と変わり、明治維新を迎えます。

明治5(1872)年に地券証が発行された際、当時の所有者であった珠玖覚兵衛が大縄地の沿革を具申し、翌年、大阪府知事から大縄地としての地券証が交付されますが、地租改正条例を受けて明治9(1876)年に新旧地券の交換が行われた時には、満潮の際に海面に没する大縄地については、海面との分界がはっきりした時点で地券交付を申し出ることとして、新地券が発行されませんでした。

芝川又右衛門が橋本吉左衛門よりこの大縄地を購入した際、橋本名義を芝川名義に書き換えた地券証(旧地券証)は公布されましたが、現行の地券証がないことに不安を感じた又右衛門は、明治14(1881)年に「未開墾地所有権之義ニ付御願」を大阪府知事に提出し、他の海面との分界が明確になった際には、この願書が地券証と引き換えの確証となるよう指令して欲しい旨を申し入れ、建野郷三知事から承諾を得ていました。


▲永代田宅地売渡確証(同 T02_090_003)
芝川が橋本から千歳新田を購入した際のものと思われる。文中に「未開発場反別62町8反5畝19歩 但シ此地券証第47号1枚」とある。




▲地券証 写し(千島土地株式会社所蔵資料 T02_090_002)
千歳新田の地券証の内容を写したもの。上記資料に記載がある通り、「第47号地券之証」に大縄地のことが記載されている。


▲未開墾地所有権之義ニ付御願(一部)と大阪府知事からの指令(同 T03_001_002)


さて、この大縄地について芝川は開墾を計画し、明治28(1895)年、大阪府知事に「水面埋立願」を提出します。しかし、この出願に対し、府知事からは何の音沙汰もありませんでした。




▲水面埋立願、水面埋立設計書(同 T02_092_001)


ちょうどこの時、大阪市は築港の計画を進めており、明治29(1896)年5月には「大阪築港取調に関する報告書」が予算案とともに市会で可決されました。この予算案では、湾岸の土地を埋め立て、その売却費を総工費の一部に充てることになっていましたが、その中に、芝川が埋立を出願していた千歳新田地先の大縄地が、事前に何の相談もないまま含まれていたのです。


▲市の埋立計画に含まれた芝川、岡島の大縄地(同 T02_084_003)


明治30年に大阪市が内務省に築港工事設計書を提出した際、内務省から芝川、岡島の大縄地について問い合わせがあったことが、大縄地事件の発端となります。

芝川、岡島は、村山龍平の紹介で弁護士・高谷恒太郎(宗範)を代理人とし、本件に関する全権を委任しましたが、市側が代理人との交渉を拒んだため、事態はなかなか進展しませんでした。

そんな中、高谷が時の総理兼大蔵大臣の松方正義に呼ばれ、本件顛末の説明を求められます。高谷が、「芝川、岡島の両人は、大阪築港が必要な工事であることをよく理解しており、大阪市が両人の大縄地に関する権利を認めた上で交渉を進めるのであれば、妥協の余地がない訳ではない」旨を説明したところ、総理は大阪府知事(大阪市長を兼任しており、本件の交渉を担当)に対し、高谷と協議するよう通告しました。

話し合いはなかなか進みませんでしたが、知事が大阪株式取引所理事長の磯野小右衛門に本件の調停を依頼した結果、芝川、岡島は、所有する大縄地の9/10を大阪市に無償で寄付し、残り1/10については相当対価の12万円以上40万円以下の範囲で市に譲渡することを決議します。しかしながら、知事は12万円の支出も難しいとして、11万円を支出することを市議会で決した上で、これを了承するよう交渉してきたのです。これに対し、芝川、岡島は範囲外の金額では容認できないとして、再び調停は決裂しました。

知事らは市会に報告した金額が実現できない不面目を招いて困難な立場に立たされ、遂にこれまでの交渉が誤っていたことを謝罪します。そして最終的に、大縄地全体を11万円で売却するということで本件は落着したのです。


▲大縄地譲渡に関する契約書(同 T02_101_011)


明治30年9月7日、大縄地の譲渡代金11万円の受け渡しが行われ、この際、芝川の大縄地に関する関係書類は大阪市に引き渡されました。


▲大縄地関連資料領収書(同 T03_001_001)


さて、大縄地の譲渡代金11万円のうち、芝川の所得は64,359円22銭1厘でした。しかしながら、芝川は、市が自らの権利を蔑ろにしたことに対して毅然とした態度を取ったものであり、当初から大縄地によって利益を得ることは考えていませんでした。大阪市が芝川の大縄権を認めたことで目的は達せられたことから、芝川は、受け取った代金から交渉に要した実費を差し引いた全額を大阪築港費として大阪市に寄付します。


▲寄附願(同 T03_001_006)


この芝川の私心のない鮮やかな振る舞いは、多くの人に感銘を与え、明治32年12月には賞勲局から金杯が下賜されました。


▲金杯下賜(同 T03_001_007)

 


▲芝川の寄付を報じた新聞記事
(上左:1897年9月14日東京朝日新聞、上右:1897年9月12日大阪毎日新聞、下:1897年9月12日大阪朝日新聞)
大縄地事件の経過は、新聞でも随時報じられた。




■参考資料
『千島土地株式会社五十年小史』千島土地㈱、1962
『千島土地株式会社設立100周年記念誌』千島土地㈱、2012
『明治大正大阪市史 第3巻 経済篇 中』大阪市役所編纂、日本評論社、1934
『大阪港史 第1巻』大阪市港湾局、1959
『大阪築港100年 ―海からのまちづくり― 上巻』大阪市港湾局、1997
『大株五十年史』大阪株式取引所編、1928


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芝川家の六甲山別荘

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六甲山は、明治28(1895)年に英国人貿易商のグルームが六甲山に山荘を建てて以来、居留地在住の外国人たちが相次いで別荘を構え、「外人村」と言われる別荘地として開けていきました。

大正3(1914)年に第一次世界大戦が勃発すると、外国人貿易商たちは祖国に帰国するため次々と六甲山から撤退しますが、代わって大戦による好景気の中で、日本人の富豪たちが六甲に別荘を構えるようになります。

さらに昭和2(1927)年に阪神電鉄㈱が有野村から六甲山上の土地を買収すると、昭和7(1932)年までの間に、表裏六甲ドライブウェイ、六甲登山ロープウェイ、六甲ケーブル、山上回遊道路などのインフラが整えられ、別荘地の分譲や観光施設の開業など、保養地・行楽地としての開発が進められました。



▲六甲山頂の土地利用(稲見悦冶、森昌久「六甲山地の観光・休養地化について」より)
阪神電鉄は、六甲山のエリア別に開発計画を立てて、それぞれの土地の特色を生かした多角的な観光地、保養地の開発を行った。


そんな中、昭和6年から7年にかけて、芝川又四郎は阪神電鉄から、現在のサンセットドライブウェイ沿いに土地を購入します。

この土地の購入について、又四郎は自叙伝の中で次のように述べています。
「私の知人の山口吉郎兵衛、阪野兼通*1)、塩野吉兵衛、広岡恵三*2)さんたち、大阪の知人がみな六甲に別荘を持ちました。…(中略)…普通は南向きの土地を買うのですが、六甲は夏案外暑く、縁側をガラス戸にすると日がガンガンさすので、避暑に夏だけ行くように、北向きの土地を買ったのです。」

そして昭和7年に、竹中工務店に依頼して木造平屋建ての別荘を建設しました。








▲立面図(千島土地株式会社所蔵資料 S04_002_002)


▲北東からの外観(同 P52_002)
建物北側に広い開口部が設けられているのがわかる。


▲平面図(同 S04_002_001)


▲寝室(同 P57_034)


▲食堂兼居間(同 P52_003)
柱のない大空間


▲暖炉には「有雅商店特製草葉焼付タイル」が使用された


別荘を建てるにあたっては、六甲山の気候の特徴を考慮して様々な工夫がなされたことが又四郎の自叙伝から伺えます。
「非常に湿度の高いところですので、押し入れには鉄板を張り、床は板敷きにしてベッドを使うことにしました。」
「しっけるので、壁も普通の竹の下地に土壁を塗ることができませんので、いまではいろいろの壁板がありますが、その時分唯一のタイガー・ボードを使いました。」
「普通の屋根がわらは六甲では割れるので、広島県の薬がけかわらをふくのですが、幸い岸本吉左衛門さんが八幡製鉄の製品の問屋で、そこで鉄かす処理の方法として、鉄製の屋根がわらをつくっていましたので、これを使うことにしました。」


▲仕様書
壁や天井に用いられたのは「浅野物産発売に依る和製「セロテックス」」であり、屋根は「特許●(金偏に瓦)鋳造合資会社製造による●(金偏に瓦)葺」とすることが記されている。


戦後、芝川家の六甲山別荘は貸別荘として運営されていましたが、その後、建物は売却されました。一時、ステーキレストランとして活用されていましたが、現在は閉店され、所有者の方の山荘として使われています。

実は先日、建物を拝見し、現在の所有者の方のお話を伺う機会に恵まれたのですが、湿度の高い六甲山での建物維持のご苦労はあるものの、実際に使ってみると、特殊な気候に対する工夫が随所に為されており、とてもよくできた建物だと感心しているとお話し下さいました。

昭和初期に建てられた六甲山の近代建築も、六甲山ホテル旧館(昭和4年)、ヴォーリズ六甲山荘(昭和9年)などほんの僅かしか残っていない今、所有者に恵まれ、今もかつての面影をよく残しながら活用されている芝川家が建てたこの別荘建築は、戦前の避暑地としての六甲山の歴史を物語る貴重な建物のひとつといえるのではないでしょうか。



*1)阪野兼通:坂野兼通の誤りと思われる。子供服のファミリア創業者・坂野惇子の夫・坂野通夫の父。山口銀行(後の三和銀行、現・三菱東京UFJ銀行)の近代化に貢献し、山口家の大番頭として活躍した大阪財界、銀行界の重鎮。

*2)広岡恵三:広岡浅子の一人娘・亀子の夫で、加島銀行頭取、大同生命社長などを務めた実業家。実妹の一柳満喜子は建築家のW.M.ヴォーリズの妻。
芝川家と広岡浅子に関しては「二代目・芝川又右衛門 ~日本女子大学校設立への関わり~」をご参照ください。



■参考資料
稲見悦冶、森昌久「六甲山地の観光・休養地化について」、『歴史地理学紀要』歴史地理学会編、1968
神戸建築物語 第14回 六甲山開化物語 講演録
『小さな歩み』芝川又四郎、1969


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御堂筋をつくった技術者・直木倫太郎

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2017年5月11日に、御堂筋は完成80周年を迎えました。
この機会に、御堂筋の建設において重要な役割を果たした、芝川家に縁のある人物をご紹介したいと思います。

その人物とは、直木倫太郎。直木の四男・惇(あつし)が、芝川又四郎の長女・百合子と結婚(婿養子)したことから、芝川家の姻戚となった方です。


▲直木倫太郎(『燕洋遺稿集』より)

直木は1875(明治8)年に兵庫県で誕生。東京帝国大学土木学科を卒業後*)、東京市や大蔵省臨時建築部で東京築港計画や横浜築港事業に携わった技術のスペシャリストです。東京で実績を積んだ後、1917(大正6)年に大阪市から招請され、池上四郎市長、関一助役の下、港湾部長兼市区改正部長として大阪の都市改造を牽引しました。



東京では1888(明治21)年に「市区改正条例」が公布され、大阪でも1886(明治19)年に「市区改正の計画を請ふの建議」が建野郷三大阪府知事に提出されたのを皮切りに、その後も何度か市区改正を求める動きがあったものの、財政上の理由などから結局実施には至りませんでした。

1914(大正3)年に第一次世界大戦が起こると、大阪は好景気に沸き、財政事情が好転するとともに、工業化・都市化に対応する都市づくりへの必要性が高まります。1917(大正6)年に、関一助役を委員長とする都市改造計画調査会が設置され、翌年、池上市長に報告書を提出。それをもとに「大阪市区改正設計」が作成され、内務省大阪市区改正委員会での審議を経て、1920(大正9)年に告示されました。

この「大阪市区改正設計」のベースとなった「大阪市都市計画説明書(交通運輸之部)」の中で、“市の将来に取りて、交通上商業上また美観上、最高級の使命を荷はしむ”「一等道路」として計画されたのが御堂筋でした。

直木は、都市改良計画調査会委員、市区改正部長、内務省大阪市区改正委員会委員として、この一連の計画の策定に深く携わります。また、1920年に大阪市に都市計画部が設置されると、初代都市計画部長に就任して第一次大阪都市計画事業を指揮しました。

大阪の都市計画の推進者としては、何と言っても関一が有名ですが、関の下で具体的な事業計画策定を指導したのは直木であったと言われています。1923(大正12)年に関東大震災が起こると、直木は帝都復興院に技監(技術陣のトップ)として招聘されますが、関はこの引き抜きについて、「大阪市にとりては一大打撃なり。殊に余の腹案に対しては、ほとんど回復し難き損失なり」と嘆きました。

第一次大阪都市計画事業は関東大震災を受けて修正され、1926(大正15)年に御堂筋が着工します。この時、直木は既に大阪を去っていましたが、大阪の都市計画策定に深く関わった直木は、今につながる都市大阪の礎を築いた、大阪にとってなくてはならない人だったのです。



関東大震災後、帝都復興院技監(のち復興局長官)に就任した直木は、1925(大正14)年にこれを辞し、大林組取締役兼技師長に就任します。*2)その後、「満州国」からの招請を受けて1933(昭和8)年に赴任し、技術陣のトップとして国土づくりに奔走しますが、1943(昭和18)年、視察中にひいた風邪がもとで急性肺炎を患い、彼の地で亡くなります。享年67歳でした。



さて、技術者としての生を全うした直木倫太郎は、一方で、「燕洋」と号す俳人でもありました。高浜虚子、河東碧梧桐とは第二高等学校の同期生であったほか、正岡子規に師事し、ホトトギスの同人として活躍。夏目漱石、中村不折、滝廉太郎*3)、永田青嵐*4)等とも交友があり、土井晩翠をして、燕洋が残念なのは土木技術者であること、と言わしめたほどの力量であったといいます。

また、技術者を対象とした専門誌『工人』に記事を寄せ、技術者の地位向上を熱く訴えたほか、演説も上手く、大阪市区改正委員会の時の住民説明会における市民講演は、「殊に直木君の大大阪建設大受なり」と関一が日記に書き残すほどで、ここにも直木の文学的才能を見て取ることができます。

「直木さんは一種の徳があった。人の追及できないものがあった。親分もなければ、また乾分なし。水の如く空気の如く掴むこともできず、また捕えることもできず、淡々乎としていく処、皆佳。」と部下が評した直木の人柄は、技術者の枠に捕われず、文学を通して得た、幅広い交友や視野によって培われたものであったのかも知れません。




▲1932(昭和7)年、直木惇と芝川百合子の婚礼写真(千島土地株式会社所蔵資料P11_038)
前列中央の新郎新婦を挟んで、媒酌人の大林義雄・尚子夫妻。左が直木倫太郎・隆子、右が芝川又四郎・竹。芝川又四郎には又彦、又次の二人の男子がいたが、長女・百合子に直木家から婿養子を迎えたことについて、「又彦があまり(ママ)小さいし、私に万一のことがあった場合を考えてのこと」と述べている。



▲正岡子規の根岸草庵(子規庵)での蕪村忌(『燕洋遺構集』より)
前列中央が正岡子規、二列目に高浜虚子、中村不折、三列目に河東碧梧桐、直木燕洋(右から6人目)。



▲直木倫太郎句碑「雲凍る この国人と なり終へむ」
直木が最初に病床についた湯池子(タンチーズ)の丘には、直木の句碑が建てられ、「燕洋ケ丘」と名付けられた。



*)明治32(1899)年、直木は「銀時計組」として東京帝国大学を卒業。東京帝国大学では、明治30年から各学部成績優秀者(主席・次席)に天皇からの褒章として銀時計が授与されており、この銀時計を賜った者は「銀時計組」と呼ばれた。なお、土木学部の同期には、後に鹿島組(現・鹿島建設㈱)社長となる鹿島精一がおり、卒業席次は直木が主席、鹿島が次席であったという。

*2)直木は年俸1万円で大林組に招かれたが、当時、これは国務大臣に匹敵する額であった。

*3)滝廉太郎:滝と直木の友情は、六代 桂文枝氏の創作落語「~熱き想いを花と月に馳せて~滝廉太郎物語」で描かれ話題となった。

*4)永田青嵐(せいらん):本名・永田秀次郎。第7代東京市長・後藤新平の助役を務め、後藤退任後、第8代東京市長となる。直木とは学生時代からの知り合いで、同宿したこともあったという。



■参考資料
『「都市計画」の誕生 -国際比較からみた日本近代都市計画-』渡辺俊一、柏書房、2000
『技術者の自立・技術の独立を求めて -直木倫太郎と宮本武之輔の歩みを中心に-』土木学会、土木図書館委員会 直木倫太郎・宮本武之輔研究小委員会編集、土木学会、2014
『燕洋遺稿集』燕洋遺族代表 直木力編集発行、昭和55
『鹿島建設百三十年史』鹿島建設社史編纂委員会編、鹿島研究所出版会、1971
『大林組百年史 1892-1991』大林組社史編集委員会編集、大林組、1993

奈良の古写真

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今回は、芝川家が所蔵する古写真の中から、奈良の社寺を撮影したものをご紹介します。

こちらは芝川家の誰かが撮影したものなのか、或いは購入したものなのかは不明ですが、16.5cm×10.5cmの厚紙に写真が貼られ、裏には毛筆でキャプションが記されています。



撮影時期も明確ではありませんが、明治頃のものでしょうか。



猿沢池(千島土地株式会社所蔵資料P29_001)


興福寺五重塔(同P29_002)


興福寺南円堂(同P29_005)


興福寺中金堂(同P29_003)


東大寺大仏殿(同P29_010)


東大寺二月堂(同P29_009)


春日大鳥居(春日大社一之鳥居)(同P29_008)


春日大社中門・御廊(同P29_006)


手向山八幡宮(同P29_004)


新薬師寺本堂(同P29_007)


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。



























『千島土地株式会社100周年記念誌』

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『千島土地株式会社100周年記念誌(100年誌)』は、2012年に千島土地株式会社が株式会社設立100周年を迎えるにあたり制作いたしました。

当社は設立時より、主に大阪に広大な土地を所有していたことから、大阪に根差して事業を展開してきました。このため、100年誌制作の際には、“当社の歴史は大阪の歴史の一側面”と考え、当社の歴史や業績のみを詳述する従来の「社史」の枠組みを超えて、多くの方に関心を持ってお読みいただける内容になるよう心がけました。

また、日本語版100年誌には、当社の歴史、創業家である芝川家の歴史のほか、未来への視点として、「これからのまちづくりに求められること」をテーマに、都市計画、建築、アートの分野の第一線で活動されている方々にお集まりいただいて開催したトークセッションの様子も収録しています。

当社の歴史や活動に関心をお持ち下さる方に留まらず、近代大阪や阪神間の歴史や文化、大阪のまちづくりや建築、アートなどに関心ある幅広い方々に、お手にとってご覧いただけたらと思っています。


▼日本語版









▼英語版








●日本語版100年誌もくじ



●NEWS
・「第54回 全国カタログ・ポスター展」経済産業省 商務情報政策局長賞 受賞のお知らせ(2012.12.14)
・ビーバップ!ハイヒール「THE創業者 時代を作ったHEROES」でご紹介いただきました。(2013.08.29)
・100年誌がパリ装飾芸術美術館に収蔵(2014.05.09)
・東洋経済ONLINE「社史の図書館から」でご紹介いただきました。(2015.07.04)
・『社史の図書館と司書の物語 神奈川県立川崎図書館社史室の5年史』でご紹介いただきました。(2017.01.01)


●主な寄贈先(一部で閲覧可。詳細は各所蔵機関にお問い合わせ下さい。)
公立図書館など
・明石市立図書館
・国立国会図書館
・大阪府立中之島図書館
・大阪市立図書館
・大阪企業家ミュージアム
・大阪歴史博物館
・神奈川県立川崎図書館
・東京都立図書館
・西宮市立図書館
・(公財)阪急文化財団池田文庫

大学図書館
・大阪市立大学大学史資料室
・大阪経済大学中小企業・経営研究所
・学習院大学図書館
・関西大学図書館
・京都工芸繊維大学附属図書館
・神戸大学附属図書館社会科学系図書館
・滋賀大学附属図書館
・摂南大学
・東京大学経済学図書館
・名古屋学院大学 瀬戸キャンパス学術情報センター
・一橋大学附属図書館
・法政大学イノベーション・マネジメント研究センター

海外
・カリフォルニア大学サンディエゴ校Geisel図書館
・パリ装飾芸術美術館
・ハワイ大学

※研究、調査の目的に限り、当社でも100年誌の貸出を行っております。
 詳しくは下記お問い合わせ先にご相談下さい。


●お問い合わせ
 当社100年誌に関するお問い合わせは、千島土地株式会社アーカイブ室(06-6681-6456)まで。

各地名所写真

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今回ご紹介するのは、10.6cm×6.4cmの名刺ほどの大きさの台紙に貼られた写真です。

写真を趣味とした芝川又三郎が撮影した写真が含まれることから、又三郎が撮影したものと思われます。

ほどんどの写真の裏面に撮影場所がメモ書きされているので、どこで撮影されたのかわかるのが大変嬉しい資料です。



彦根旧城内ヨリ楽々園ヲ望ム(千島土地株式会社所蔵資料P25_005)


彦根楽々園八景亭(同P25_002)


出雲大社(同P25_006)


美保神社(島根県松江市)(同P25_003)


宍道湖之夕陽(同P25_012)
この写真は10.4cm×16.6cmの少し大きめの台紙に貼られた写真です。
中央に写るのは、宍道湖に浮かぶ島・嫁ケ島でしょうか。


琴平神社(同P25_010)


琴平神社金堂(同P25_011)


道後温泉(同P25_009)


杵築之宅(同P25_004)
大分県杵築でしょうか。


(同P25_013)
こちらの写真には台紙がなく、説明書きもないため、どこで撮影されたものかは不明です。

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