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各地名所写真2

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前回に引き続き、日本各地の名所を撮影したと思われる写真のご紹介です。

こちらも前回同様、芝川又三郎撮影の写真と思われます。

撮影時期は、又三郎が写真を始めた明治26(1893)年から10年ほどの間ですが、残念ながら撮影地などのメモ書きが殆ど残されておらず、詳細がわからないものもたくさんあります。

ご覧下さった方で、撮影地などがわかる方がいらっしゃいましたら、是非ご教示下さい!


それではさっそく画像をご紹介して参ります。

まずは撮影地がわかっているものから…


須磨寺(千島土地株式会社所蔵資料P027_001)
「道路の左の柵は若木の桜」と説明が添えられています。


北野天満宮(同P27_014)
扁額から「天満宮」と読み取ることができます。


海神社(神戸市垂水区)(同P27_020)


堂島の大阪商業学校(現・大阪市立大学)(同P27_023)
手前の橋は堂島堀川に架かる「新柳橋」


熊本第五高等学校(同P27_024)
こちらは又三郎の母校です。


熊本城(同P27_028)


耶馬溪 青のトンネル(大分県)(同P27_030)



続いて詳細のわからない写真です。


(同P27_002)
「菅公御手植の松」と記されていますが、菅原道真公が太宰府左遷の際に松を植えた…という伝承は各地に残されていることから、こちらがどの場所なのかは特定できていません。


(同P27_003)


(同P27_005)
東大寺南大門のようにも見えるのですが、少し異なるようにも見えます。


(同P27_018)
こちらは東大寺南大門で間違いなさそうです。
こうして見比べると、上の写真はやはり南大門ではないように思います。


(同P27_006)
鳥居の扁額の文字が不鮮明ながら「立幡神社」と読めるように思い、検索してみましたが詳細はわからずです。


(同P27_007)


(同P27_008)

(同P27_009)


(同P27_010)


(同P27_011)


(同P27_012)


(同P27_013)


(同P27_015)


(同P27_016)


(同P27_017)


(同P27_019)


(同P27_022)


(同P27_025)


(同P27_026)
火災でしょうか?上の写真の被害後の写真のようです。


(同P27_027)


(同P27_029)


(同P27_031)


(同P27_032)


(同P27_033)


(同P27_034)


(同P27_035)


(同P27_036)


(同P27_037)


(同P27_038)


(同P27_039)


(同P27_040)


(同P27_041)



各地名所写真3 その1

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日本各地の名所写真シリーズ、第三弾です。

こちらも芝川又三郎撮影と思われるお写真となります。


前半は撮影地がわかるものからご紹介いたします。


大宰府 都督府古址(千島土地株式会社所蔵資料P31_024)
非常に見づらいのですが、写真中の石碑に「都督府古趾」と記されていることから、大宰府政庁跡(都督楼址)であるとわかります。


大宰府天満宮 相輪塔(同P31_031)
写真裏に「宰府」と書かれていることからの推測です。


筥崎宮(福岡県)(同P31_074)
又三郎の遺稿集『紫草遺稿』に「箱崎宮」とあることから。
写真裏には「若浜八幡」と書かれていますが、筥崎宮(筥崎八幡宮)の別称だったのでしょうか。


唐津橋(佐賀県)(同P31_060)


長崎港(同P31_088)


宇佐八幡(大分県)(同P31_073)



続いて、以下は耶馬溪の写真群です。

朝陽橋(同P31_033)


羅漢寺(同P31_041)


(同P31_067)


(同P31_054)
こちらは耶馬溪の「念仏橋」と思われます。


(同P31_051)
恐らくこちらも耶馬溪の写真と思われますが、確証はありません。


(同P31_066)
こちらも耶馬溪のようなのですが…。


(同P31_040)
こちらも耶馬溪ではないかと思うのですが…。
先の「朝陽橋」(同P31_033)の風景にもよく似ていますが、同じものではありませんので、橋の対岸かも知れません。



(同P31_030)
写真裏には「熊本●●●」と記されていますが、残念ながら文字の判読ができず…。
しかしこちらは熊本県庁舎のようです。


熊本第五高等学校(同P31_096)



さて、九州から北陸へ…

加賀山城温泉場(同P31_028)


加賀国山城温泉 倉屋(同P31_070)


加賀国大聖寺川上流(同P31_076)


加賀●大聖寺川上流に架かる蟷蟀橋(同P31_071)
「蟋蟀(こおろぎ)橋」の誤りのようです。


金沢兼六公園内霞ケ池(同P31_078)


金沢尾山神社(同P31_085)


別格官幣社 藤島神社(福井県)(同P31_029)
写真裏には「藤嶌神社」と記されています。鳥居の扁額は「藤嶋神社」となっていますね。


杉津(福井県)(同P31_032)
写真裏には「越前国杦津」とあります。


金ヶ崎宮(福井県)(同P31_083)



前回もご紹介した彦根の写真もあります。

彦根旧城(同P31_077)


彦根楽々園(同P31_079)



そして箱根のお写真も一枚。

箱根八里(同P31_089)



長くなりましたので、撮影地の特定できないお写真につきましては「その2」に続きます。



■参考資料
『紫草遺稿 乾・坤』津枝謹爾編、芝川得々発行、昭和9年


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

各地名所写真3 その2

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「その2」では、撮影地の特定が難しい写真をご紹介します。




福住橋(同P31_057)
橋の親柱から橋の名称がわかります。同名の橋が徳島県にあるようなのですが、果たして…?


(同P31_064)
写真裏には「唐人町」とありますが、どこの「唐人町」なのか、詳細はわかりません。


坪井乃流(同P31_072)
熊本の坪井川でしょうか。




そして以下は詳細不明の写真群となります。


(同P31_025)


(同P31_026)


(同P31_027)


(同P31_035)


運動会でしょうか(同P31_036)


(同P31_037)


(同P31_042)


(同P31_044)


(同P31_046)


(同P31_047)


(同P31_048)

(同P31_049)


(同P31_050)


(同P31_052)


(同P31_053)


(同P31_055)


(同P31_056)


(同P31_059)


(同P31_061)


(同P31_062)


(同P31_063)


(同P31_068)


(同P31_069)


(同P31_075)


紀念碑(同P31_081)


写真裏の文字。「武雄(佐賀県)」でしょうか…?(同P31_082)


(同P31_084)


(同P31_090)


(同P31_091)


(同P31_092)


(同P31_093)


(同P31_094)


(同P31_095)


枚数が多いため非常に長い記事となってしまいました。
おつきあい下さった皆様、ありがとうございました!


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

各地名所写真2 追記

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「各地名所写真2」に掲載された撮影地不明の写真について、古写真に大変お詳しい村上忠男氏から貴重なご教示をいただきましたのでご紹介いたします。


まずはこちらのお写真。

(千島土地株式会社所蔵資料P27_003)
長田神社(兵庫県神戸市)に似ている。


(同P27_009)
神戸停車場(神戸駅)に線路、ホームの配置が似ている。


(同P27_010)
堂島浜通にあった「大阪尋常中学校」(現・北野高校)
大阪尋常中学校は、この写真の撮影者・又三郎の母校でもあります。(明治24年入学、明治29年卒業)
なお、年譜*)によると明治27年に「写真術を葛城思鳳に問ふ(「思風」の誤りと思われる)」とありますので、在学中に撮影した写真なのかも知れません。


(同P27_011)
神戸・和田岬に明治23年に開設した遊園地「和楽園」。
奥に見える円形の建物は、勝海舟設計による砲台(現存)


(同P27_013)
「大阪偕行社(かいこうしゃ)」
旧陸軍将校の親睦と軍事研究のための組織。明治10年に東京で設立され、以後全国各地に設立されました。
なお大阪偕行社は私立小学校「大阪偕行社付属小学校」を付属し、これが戦後「追手門学院小学校」となりました。


(同P27_012)

(同P27_032)
神戸の湊川の風景に似ているとのこと。
現在、湊川は埋め立てられ、新開地となっています。


(同P27_016)

(同P27_035)
神戸布引の滝(雌滝)


(同P27_025)

(同P27_026)
堂島紡績
明治28年に日本紡織会社に合併された直後、失火により全焼しました。


(同P27_029)
神戸・舞子浜の松林に雰囲気が良く似ているとのご指摘をいただきました。


(同P27_038)
明石城跡(明石公園)


(同P27_031)
尻無川かも…?


(同P27_039)
唐崎の松(滋賀県)かも…?


こちらには掲載しておりませんが、いずれにも村上氏お手持ちの資料写真を添えて下さっており、とてもわかりやすく拝見させていただきました。ご教示本当にありがとうございました!



*)「紫草年譜」:『紫草遺稿 乾』に掲載


■参考資料
『紫草遺稿 乾・坤』津枝謹爾編、芝川得々発行、昭和9年
『ケース・スタディー 日本の企業家群像』法政大学イノベーション・マネジメント研究センター 宇田川勝編、2008年



※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

「大縄地事件」

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2017年、大阪港は開港150年を迎えます。

安政5(1858)年の日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約調印を機に、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に大阪の開市が決まったものの、開市直後は幕末の混乱の最中で、貿易は殆ど行われませんでした。その後、運上所(税関)のある安治川上流の川口で居留地の整備が進められ、明治元(慶応4)年7月15日(1868年9月1日)に大阪港が開港したのです。

しかしながら河川港であった大阪港は水深が浅く、大型船舶の出入りに不便でした。そこで築港への機運が高まり、明治30(1897)年10月に天保山に港を新設する築港工事が着工します。この築港工事に際して生じたのが「大縄地事件」でした。



明治11(1878)年、芝川又右衛門が千歳新田50町歩を購入した際、千歳新田地先の大縄地も購入しました。大縄地とは、新田開発において開発(埋め立て)許可を受けた区域のことです。「大縄地事件」は、この大縄地に対する権利について、芝川が大阪市と争った事件でした。芝川の大縄地に関する書類は、本件が落着した際に大阪市に手渡されたため、社内に残された資料は限られていますが、それらをご紹介しながら、この事件について紐解いてみたいと思います。


▲千歳新田位置図(『千島土地株式会社設立100周年記念誌』p.37より)


▲千歳新田未開墾地(大縄地)地図 (千島土地株式会社所蔵資料 T02_092_002)


千歳新田地先の大縄地は、文政12(1829)年に、葭屋正七が地代金(上納金)を納めて、大坂代官・岸武太夫より開発を許可されたものでしたが、埋め立てされぬまま所有者が転々と変わり、明治維新を迎えます。

明治5(1872)年に地券証が発行された際、当時の所有者であった珠玖覚兵衛が大縄地の沿革を具申し、翌年、大阪府知事から大縄地としての地券証が交付されますが、地租改正条例を受けて明治9(1876)年に新旧地券の交換が行われた時には、満潮の際に海面に没する大縄地については、海面との分界がはっきりした時点で地券交付を申し出ることとして、新地券が発行されませんでした。

芝川又右衛門が橋本吉左衛門よりこの大縄地を購入した際、橋本名義を芝川名義に書き換えた地券証(旧地券証)は公布されましたが、現行の地券証がないことに不安を感じた又右衛門は、明治14(1881)年に「未開墾地所有権之義ニ付御願」を大阪府知事に提出し、他の海面との分界が明確になった際には、この願書が地券証と引き換えの確証となるよう指令して欲しい旨を申し入れ、建野郷三知事から承諾を得ていました。


▲永代田宅地売渡確証(同 T02_090_003)
芝川が橋本から千歳新田を購入した際のものと思われる。文中に「未開発場反別62町8反5畝19歩 但シ此地券証第47号1枚」とある。




▲地券証 写し(千島土地株式会社所蔵資料 T02_090_002)
千歳新田の地券証の内容を写したもの。上記資料に記載がある通り、「第47号地券之証」に大縄地のことが記載されている。


▲未開墾地所有権之義ニ付御願(一部)と大阪府知事からの指令(同 T03_001_002)


さて、この大縄地について芝川は開墾を計画し、明治28(1895)年、大阪府知事に「水面埋立願」を提出します。しかし、この出願に対し、府知事からは何の音沙汰もありませんでした。




▲水面埋立願、水面埋立設計書(同 T02_092_001)


ちょうどこの時、大阪市は築港の計画を進めており、明治29(1896)年5月には「大阪築港取調に関する報告書」が予算案とともに市会で可決されました。この予算案では、湾岸の土地を埋め立て、その売却費を総工費の一部に充てることになっていましたが、その中に、芝川が埋立を出願していた千歳新田地先の大縄地が、事前に何の相談もないまま含まれていたのです。


▲市の埋立計画に含まれた芝川、岡島の大縄地(同 T02_084_003)


明治30年に大阪市が内務省に築港工事設計書を提出した際、内務省から芝川、岡島の大縄地について問い合わせがあったことが、大縄地事件の発端となります。

芝川、岡島は、村山龍平の紹介で弁護士・高谷恒太郎(宗範)を代理人とし、本件に関する全権を委任しましたが、市側が代理人との交渉を拒んだため、事態はなかなか進展しませんでした。

そんな中、高谷が時の総理兼大蔵大臣の松方正義に呼ばれ、本件顛末の説明を求められます。高谷が、「芝川、岡島の両人は、大阪築港が必要な工事であることをよく理解しており、大阪市が両人の大縄地に関する権利を認めた上で交渉を進めるのであれば、妥協の余地がない訳ではない」旨を説明したところ、総理は大阪府知事(大阪市長を兼任しており、本件の交渉を担当)に対し、高谷と協議するよう通告しました。

話し合いはなかなか進みませんでしたが、知事が大阪株式取引所理事長の磯野小右衛門に本件の調停を依頼した結果、芝川、岡島は、所有する大縄地の9/10を大阪市に無償で寄付し、残り1/10については相当対価の12万円以上40万円以下の範囲で市に譲渡することを決議します。しかしながら、知事は12万円の支出も難しいとして、11万円を支出することを市議会で決した上で、これを了承するよう交渉してきたのです。これに対し、芝川、岡島は範囲外の金額では容認できないとして、再び調停は決裂しました。

知事らは市会に報告した金額が実現できない不面目を招いて困難な立場に立たされ、遂にこれまでの交渉が誤っていたことを謝罪します。そして最終的に、大縄地全体を11万円で売却するということで本件は落着したのです。


▲大縄地譲渡に関する契約書(同 T02_101_011)


明治30年9月7日、大縄地の譲渡代金11万円の受け渡しが行われ、この際、芝川の大縄地に関する関係書類は大阪市に引き渡されました。


▲大縄地関連資料領収書(同 T03_001_001)


さて、大縄地の譲渡代金11万円のうち、芝川の所得は64,359円22銭1厘でした。しかしながら、芝川は、市が自らの権利を蔑ろにしたことに対して毅然とした態度を取ったものであり、当初から大縄地によって利益を得ることは考えていませんでした。大阪市が芝川の大縄権を認めたことで目的は達せられたことから、芝川は、受け取った代金から交渉に要した実費を差し引いた全額を大阪築港費として大阪市に寄付します。


▲寄附願(同 T03_001_006)


この芝川の私心のない鮮やかな振る舞いは、多くの人に感銘を与え、明治32年12月には賞勲局から金杯が下賜されました。


▲金杯下賜(同 T03_001_007)

 


▲芝川の寄付を報じた新聞記事
(上左:1897年9月14日東京朝日新聞、上右:1897年9月12日大阪毎日新聞、下:1897年9月12日大阪朝日新聞)
大縄地事件の経過は、新聞でも随時報じられた。




■参考資料
『千島土地株式会社五十年小史』千島土地㈱、1962
『千島土地株式会社設立100周年記念誌』千島土地㈱、2012
『明治大正大阪市史 第3巻 経済篇 中』大阪市役所編纂、日本評論社、1934
『大阪港史 第1巻』大阪市港湾局、1959
『大阪築港100年 ―海からのまちづくり― 上巻』大阪市港湾局、1997
『大株五十年史』大阪株式取引所編、1928


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芝川家の六甲山別荘

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六甲山は、明治28(1895)年に英国人貿易商のグルームが六甲山に山荘を建てて以来、居留地在住の外国人たちが相次いで別荘を構え、「外人村」と言われる別荘地として開けていきました。

大正3(1914)年に第一次世界大戦が勃発すると、外国人貿易商たちは祖国に帰国するため次々と六甲山から撤退しますが、代わって大戦による好景気の中で、日本人の富豪たちが六甲に別荘を構えるようになります。

さらに昭和2(1927)年に阪神電鉄㈱が有野村から六甲山上の土地を買収すると、昭和7(1932)年までの間に、表裏六甲ドライブウェイ、六甲登山ロープウェイ、六甲ケーブル、山上回遊道路などのインフラが整えられ、別荘地の分譲や観光施設の開業など、保養地・行楽地としての開発が進められました。



▲六甲山頂の土地利用(稲見悦冶、森昌久「六甲山地の観光・休養地化について」より)
阪神電鉄は、六甲山のエリア別に開発計画を立てて、それぞれの土地の特色を生かした多角的な観光地、保養地の開発を行った。


そんな中、昭和6年から7年にかけて、芝川又四郎は阪神電鉄から、現在のサンセットドライブウェイ沿いに土地を購入します。

この土地の購入について、又四郎は自叙伝の中で次のように述べています。
「私の知人の山口吉郎兵衛、阪野兼通*1)、塩野吉兵衛、広岡恵三*2)さんたち、大阪の知人がみな六甲に別荘を持ちました。…(中略)…普通は南向きの土地を買うのですが、六甲は夏案外暑く、縁側をガラス戸にすると日がガンガンさすので、避暑に夏だけ行くように、北向きの土地を買ったのです。」

そして昭和7年に、竹中工務店に依頼して木造平屋建ての別荘を建設しました。








▲立面図(千島土地株式会社所蔵資料 S04_002_002)


▲北東からの外観(同 P52_002)
建物北側に広い開口部が設けられているのがわかる。


▲平面図(同 S04_002_001)


▲寝室(同 P57_034)


▲食堂兼居間(同 P52_003)
柱のない大空間


▲暖炉には「有雅商店特製草葉焼付タイル」が使用された


別荘を建てるにあたっては、六甲山の気候の特徴を考慮して様々な工夫がなされたことが又四郎の自叙伝から伺えます。
「非常に湿度の高いところですので、押し入れには鉄板を張り、床は板敷きにしてベッドを使うことにしました。」
「しっけるので、壁も普通の竹の下地に土壁を塗ることができませんので、いまではいろいろの壁板がありますが、その時分唯一のタイガー・ボードを使いました。」
「普通の屋根がわらは六甲では割れるので、広島県の薬がけかわらをふくのですが、幸い岸本吉左衛門さんが八幡製鉄の製品の問屋で、そこで鉄かす処理の方法として、鉄製の屋根がわらをつくっていましたので、これを使うことにしました。」


▲仕様書
壁や天井に用いられたのは「浅野物産発売に依る和製「セロテックス」」であり、屋根は「特許●(金偏に瓦)鋳造合資会社製造による●(金偏に瓦)葺」とすることが記されている。


戦後、芝川家の六甲山別荘は貸別荘として運営されていましたが、その後、建物は売却されました。一時、ステーキレストランとして活用されていましたが、現在は閉店され、所有者の方の山荘として使われています。

実は先日、建物を拝見し、現在の所有者の方のお話を伺う機会に恵まれたのですが、湿度の高い六甲山での建物維持のご苦労はあるものの、実際に使ってみると、特殊な気候に対する工夫が随所に為されており、とてもよくできた建物だと感心しているとお話し下さいました。

昭和初期に建てられた六甲山の近代建築も、六甲山ホテル旧館(昭和4年)、ヴォーリズ六甲山荘(昭和9年)などほんの僅かしか残っていない今、所有者に恵まれ、今もかつての面影をよく残しながら活用されている芝川家が建てたこの別荘建築は、戦前の避暑地としての六甲山の歴史を物語る貴重な建物のひとつといえるのではないでしょうか。



*1)阪野兼通:坂野兼通の誤りと思われる。子供服のファミリア創業者・坂野惇子の夫・坂野通夫の父。山口銀行(後の三和銀行、現・三菱東京UFJ銀行)の近代化に貢献し、山口家の大番頭として活躍した大阪財界、銀行界の重鎮。

*2)広岡恵三:広岡浅子の一人娘・亀子の夫で、加島銀行頭取、大同生命社長などを務めた実業家。実妹の一柳満喜子は建築家のW.M.ヴォーリズの妻。
芝川家と広岡浅子に関しては「二代目・芝川又右衛門 ~日本女子大学校設立への関わり~」をご参照ください。



■参考資料
稲見悦冶、森昌久「六甲山地の観光・休養地化について」、『歴史地理学紀要』歴史地理学会編、1968
神戸建築物語 第14回 六甲山開化物語 講演録
『小さな歩み』芝川又四郎、1969


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御堂筋をつくった技術者・直木倫太郎

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2017年5月11日に、御堂筋は完成80周年を迎えました。
この機会に、御堂筋の建設において重要な役割を果たした、芝川家に縁のある人物をご紹介したいと思います。

その人物とは、直木倫太郎。直木の四男・惇(あつし)が、芝川又四郎の長女・百合子と結婚(婿養子)したことから、芝川家の姻戚となった方です。


▲直木倫太郎(『燕洋遺稿集』より)

直木は1875(明治8)年に兵庫県で誕生。東京帝国大学土木学科を卒業後*)、東京市や大蔵省臨時建築部で東京築港計画や横浜築港事業に携わった技術のスペシャリストです。東京で実績を積んだ後、1917(大正6)年に大阪市から招請され、池上四郎市長、関一助役の下、港湾部長兼市区改正部長として大阪の都市改造を牽引しました。



東京では1888(明治21)年に「市区改正条例」が公布され、大阪でも1886(明治19)年に「市区改正の計画を請ふの建議」が建野郷三大阪府知事に提出されたのを皮切りに、その後も何度か市区改正を求める動きがあったものの、財政上の理由などから結局実施には至りませんでした。

1914(大正3)年に第一次世界大戦が起こると、大阪は好景気に沸き、財政事情が好転するとともに、工業化・都市化に対応する都市づくりへの必要性が高まります。1917(大正6)年に、関一助役を委員長とする都市改造計画調査会が設置され、翌年、池上市長に報告書を提出。それをもとに「大阪市区改正設計」が作成され、内務省大阪市区改正委員会での審議を経て、1920(大正9)年に告示されました。

この「大阪市区改正設計」のベースとなった「大阪市都市計画説明書(交通運輸之部)」の中で、“市の将来に取りて、交通上商業上また美観上、最高級の使命を荷はしむ”「一等道路」として計画されたのが御堂筋でした。

直木は、都市改良計画調査会委員、市区改正部長、内務省大阪市区改正委員会委員として、この一連の計画の策定に深く携わります。また、1920年に大阪市に都市計画部が設置されると、初代都市計画部長に就任して第一次大阪都市計画事業を指揮しました。

大阪の都市計画の推進者としては、何と言っても関一が有名ですが、関の下で具体的な事業計画策定を指導したのは直木であったと言われています。1923(大正12)年に関東大震災が起こると、直木は帝都復興院に技監(技術陣のトップ)として招聘されますが、関はこの引き抜きについて、「大阪市にとりては一大打撃なり。殊に余の腹案に対しては、ほとんど回復し難き損失なり」と嘆きました。

第一次大阪都市計画事業は関東大震災を受けて修正され、1926(大正15)年に御堂筋が着工します。この時、直木は既に大阪を去っていましたが、大阪の都市計画策定に深く関わった直木は、今につながる都市大阪の礎を築いた、大阪にとってなくてはならない人だったのです。



関東大震災後、帝都復興院技監(のち復興局長官)に就任した直木は、1925(大正14)年にこれを辞し、大林組取締役兼技師長に就任します。*2)その後、「満州国」からの招請を受けて1933(昭和8)年に赴任し、技術陣のトップとして国土づくりに奔走しますが、1943(昭和18)年、視察中にひいた風邪がもとで急性肺炎を患い、彼の地で亡くなります。享年67歳でした。



さて、技術者としての生を全うした直木倫太郎は、一方で、「燕洋」と号す俳人でもありました。高浜虚子、河東碧梧桐とは第二高等学校の同期生であったほか、正岡子規に師事し、ホトトギスの同人として活躍。夏目漱石、中村不折、滝廉太郎*3)、永田青嵐*4)等とも交友があり、土井晩翠をして、燕洋が残念なのは土木技術者であること、と言わしめたほどの力量であったといいます。

また、技術者を対象とした専門誌『工人』に記事を寄せ、技術者の地位向上を熱く訴えたほか、演説も上手く、大阪市区改正委員会の時の住民説明会における市民講演は、「殊に直木君の大大阪建設大受なり」と関一が日記に書き残すほどで、ここにも直木の文学的才能を見て取ることができます。

「直木さんは一種の徳があった。人の追及できないものがあった。親分もなければ、また乾分なし。水の如く空気の如く掴むこともできず、また捕えることもできず、淡々乎としていく処、皆佳。」と部下が評した直木の人柄は、技術者の枠に捕われず、文学を通して得た、幅広い交友や視野によって培われたものであったのかも知れません。




▲1932(昭和7)年、直木惇と芝川百合子の婚礼写真(千島土地株式会社所蔵資料P11_038)
前列中央の新郎新婦を挟んで、媒酌人の大林義雄・尚子夫妻。左が直木倫太郎・隆子、右が芝川又四郎・竹。芝川又四郎には又彦、又次の二人の男子がいたが、長女・百合子に直木家から婿養子を迎えたことについて、「又彦があまり(ママ)小さいし、私に万一のことがあった場合を考えてのこと」と述べている。



▲正岡子規の根岸草庵(子規庵)での蕪村忌(『燕洋遺構集』より)
前列中央が正岡子規、二列目に高浜虚子、中村不折、三列目に河東碧梧桐、直木燕洋(右から6人目)。



▲直木倫太郎句碑「雲凍る この国人と なり終へむ」
直木が最初に病床についた湯池子(タンチーズ)の丘には、直木の句碑が建てられ、「燕洋ケ丘」と名付けられた。



*)明治32(1899)年、直木は「銀時計組」として東京帝国大学を卒業。東京帝国大学では、明治30年から各学部成績優秀者(主席・次席)に天皇からの褒章として銀時計が授与されており、この銀時計を賜った者は「銀時計組」と呼ばれた。なお、土木学部の同期には、後に鹿島組(現・鹿島建設㈱)社長となる鹿島精一がおり、卒業席次は直木が主席、鹿島が次席であったという。

*2)直木は年俸1万円で大林組に招かれたが、当時、これは国務大臣に匹敵する額であった。

*3)滝廉太郎:滝と直木の友情は、六代 桂文枝氏の創作落語「~熱き想いを花と月に馳せて~滝廉太郎物語」で描かれ話題となった。

*4)永田青嵐(せいらん):本名・永田秀次郎。第7代東京市長・後藤新平の助役を務め、後藤退任後、第8代東京市長となる。直木とは学生時代からの知り合いで、同宿したこともあったという。



■参考資料
『「都市計画」の誕生 -国際比較からみた日本近代都市計画-』渡辺俊一、柏書房、2000
『技術者の自立・技術の独立を求めて -直木倫太郎と宮本武之輔の歩みを中心に-』土木学会、土木図書館委員会 直木倫太郎・宮本武之輔研究小委員会編集、土木学会、2014
『燕洋遺稿集』燕洋遺族代表 直木力編集発行、昭和55
『鹿島建設百三十年史』鹿島建設社史編纂委員会編、鹿島研究所出版会、1971
『大林組百年史 1892-1991』大林組社史編集委員会編集、大林組、1993


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奈良の古写真

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今回は、芝川家が所蔵する古写真の中から、奈良の社寺を撮影したものをご紹介します。

こちらは芝川家の誰かが撮影したものなのか、或いは購入したものなのかは不明ですが、16.5cm×10.5cmの厚紙に写真が貼られ、裏には毛筆でキャプションが記されています。



撮影時期も明確ではありませんが、明治頃のものでしょうか。



猿沢池(千島土地株式会社所蔵資料P29_001)


興福寺五重塔(同P29_002)


興福寺南円堂(同P29_005)


興福寺中金堂(同P29_003)


東大寺大仏殿(同P29_010)


東大寺二月堂(同P29_009)


春日大鳥居(春日大社一之鳥居)(同P29_008)


春日大社中門・御廊(同P29_006)


手向山八幡宮(同P29_004)


新薬師寺本堂(同P29_007)


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『千島土地株式会社100周年記念誌』

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『千島土地株式会社100周年記念誌(100年誌)』は、2012年に千島土地株式会社が株式会社設立100周年を迎えるにあたり制作いたしました。

当社は設立時より、主に大阪に広大な土地を所有していたことから、大阪に根差して事業を展開してきました。このため、100年誌制作の際には、“当社の歴史は大阪の歴史の一側面”と考え、当社の歴史や業績のみを詳述する従来の「社史」の枠組みを超えて、多くの方に関心を持ってお読みいただける内容になるよう心がけました。

また、日本語版100年誌には、当社の歴史、創業家である芝川家の歴史のほか、未来への視点として、「これからのまちづくりに求められること」をテーマに、都市計画、建築、アートの分野の第一線で活動されている方々にお集まりいただいて開催したトークセッションの様子も収録しています。

当社の歴史や活動に関心をお持ち下さる方に留まらず、近代大阪や阪神間の歴史や文化、大阪のまちづくりや建築、アートなどに関心ある幅広い方々に、お手にとってご覧いただけたらと思っています。


▼日本語版









▼英語版








●日本語版100年誌もくじ



●NEWS
・「第54回 全国カタログ・ポスター展」経済産業省 商務情報政策局長賞 受賞のお知らせ(2012.12.14)
・ビーバップ!ハイヒール「THE創業者 時代を作ったHEROES」でご紹介いただきました。(2013.08.29)
・100年誌がパリ装飾芸術美術館に収蔵(2014.05.09)
・東洋経済ONLINE「社史の図書館から」でご紹介いただきました。(2015.07.04)
・『社史の図書館と司書の物語 神奈川県立川崎図書館社史室の5年史』でご紹介いただきました。(2017.01.01)


●主な寄贈先(一部で閲覧可。詳細は各所蔵機関にお問い合わせ下さい。)
公立図書館など
・明石市立図書館
・国立国会図書館
・大阪府立中之島図書館
・大阪市立図書館
・大阪企業家ミュージアム
・大阪歴史博物館
・神奈川県立川崎図書館
・東京都立図書館
・西宮市立図書館
・(公財)阪急文化財団池田文庫

大学図書館
・大阪市立大学大学史資料室
・大阪経済大学中小企業・経営研究所
・学習院大学図書館
・関西大学図書館
・京都工芸繊維大学附属図書館
・神戸大学附属図書館社会科学系図書館
・滋賀大学附属図書館
・摂南大学
・東京大学経済学図書館
・名古屋学院大学 瀬戸キャンパス学術情報センター
・一橋大学附属図書館
・法政大学イノベーション・マネジメント研究センター

海外
・カリフォルニア大学サンディエゴ校Geisel図書館
・パリ装飾芸術美術館
・ハワイ大学

※研究、調査の目的に限り、当社でも100年誌の貸出を行っております。
 詳しくは下記お問い合わせ先にご相談下さい。


●お問い合わせ
 当社100年誌に関するお問い合わせは、千島土地株式会社アーカイブ室(06-6681-6456)まで。

各地名所写真

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今回ご紹介するのは、10.6cm×6.4cmの名刺ほどの大きさの台紙に貼られた写真です。

写真を趣味とした芝川又三郎が撮影した写真が含まれることから、又三郎が撮影したものと思われます。

ほどんどの写真の裏面に撮影場所がメモ書きされているので、どこで撮影されたのかわかるのが大変嬉しい資料です。



彦根旧城内ヨリ楽々園ヲ望ム(千島土地株式会社所蔵資料P25_005)


彦根楽々園八景亭(同P25_002)


出雲大社(同P25_006)


美保神社(島根県松江市)(同P25_003)


宍道湖之夕陽(同P25_012)
この写真は10.4cm×16.6cmの少し大きめの台紙に貼られた写真です。
中央に写るのは、宍道湖に浮かぶ島・嫁ケ島でしょうか。


琴平神社(同P25_010)


琴平神社金堂(同P25_011)


道後温泉(同P25_009)


杵築之宅(同P25_004)
大分県杵築でしょうか。


(同P25_013)
こちらの写真には台紙がなく、説明書きもないため、どこで撮影されたものかは不明です。

※古写真にお詳しい村上忠男氏から、長野善光寺の山門(三門)では?とのご教示をいただきましたので、追記いたします。



※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

各地名所写真2

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前回に引き続き、日本各地の名所を撮影したと思われる写真のご紹介です。

こちらも前回同様、芝川又三郎撮影の写真と思われます。

撮影時期は、又三郎が写真を始めた明治26(1893)年から10年ほどの間ですが、残念ながら撮影地などのメモ書きが殆ど残されておらず、詳細がわからないものもたくさんあります。

ご覧下さった方で、撮影地などがわかる方がいらっしゃいましたら、是非ご教示下さい!


それではさっそく画像をご紹介して参ります。

まずは撮影地がわかっているものから…


須磨寺(千島土地株式会社所蔵資料P027_001)
「道路の左の柵は若木の桜」と説明が添えられています。


北野天満宮(同P27_014)
扁額から「天満宮」と読み取ることができます。


海神社(神戸市垂水区)(同P27_020)


堂島の大阪商業学校(現・大阪市立大学)(同P27_023)
手前の橋は堂島堀川に架かる「新柳橋」


熊本第五高等学校(同P27_024)
こちらは又三郎の母校です。


熊本城(同P27_028)


耶馬溪 青のトンネル(大分県)(同P27_030)



続いて詳細のわからない写真です。


(同P27_002)
「菅公御手植の松」と記されていますが、菅原道真公が太宰府左遷の際に松を植えた…という伝承は各地に残されていることから、こちらがどの場所なのかは特定できていません。


(同P27_003)


(同P27_005)
東大寺南大門のようにも見えるのですが、少し異なるようにも見えます。


(同P27_018)
こちらは東大寺南大門で間違いなさそうです。
こうして見比べると、上の写真はやはり南大門ではないように思います。


(同P27_006)
鳥居の扁額の文字が不鮮明ながら「立幡神社」と読めるように思い、検索してみましたが詳細はわからずです。


(同P27_007)


(同P27_008)


(同P27_009)


(同P27_010)


(同P27_011)


(同P27_012)


(同P27_013)


(同P27_015)


(同P27_016)


(同P27_017)


(同P27_019)


(同P27_022)


(同P27_025)


(同P27_026)
火災でしょうか?上の写真の被害後の写真のようです。


(同P27_027)


(同P27_029)


(同P27_031)


(同P27_032)


(同P27_033)


(同P27_034)


(同P27_035)


(同P27_036)


(同P27_037)


(同P27_038)


(同P27_039)


(同P27_040)


(同P27_041)



※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

各地名所写真3 その1

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日本各地の名所写真シリーズ、第三弾です。

こちらも芝川又三郎撮影と思われるお写真となります。


前半は撮影地がわかるものからご紹介いたします。


大宰府 都督府古址(千島土地株式会社所蔵資料P31_024)
非常に見づらいのですが、写真中の石碑に「都督府古趾」と記されていることから、大宰府政庁跡(都督楼址)であるとわかります。


大宰府天満宮 相輪塔(同P31_031)
写真裏に「宰府」と書かれていることからの推測です。


筥崎宮(福岡県)(同P31_074)
又三郎の遺稿集『紫草遺稿』に「箱崎宮」とあることから。
写真裏には「若浜八幡」と書かれていますが、筥崎宮(筥崎八幡宮)の別称だったのでしょうか。


唐津橋(佐賀県)(同P31_060)


長崎港(同P31_088)


宇佐八幡(大分県)(同P31_073)



続いて、以下は耶馬溪の写真群です。

朝陽橋(同P31_033)


羅漢寺(同P31_041)


(同P31_067)


(同P31_054)
こちらは耶馬溪の「念仏橋」と思われます。


(同P31_051)
恐らくこちらも耶馬溪の写真と思われますが、確証はありません。


(同P31_066)
こちらも耶馬溪のようなのですが…。


(同P31_040)
こちらも耶馬溪ではないかと思うのですが…。
先の「朝陽橋」(同P31_033)の風景にもよく似ていますが、同じものではありませんので、橋の対岸かも知れません。



(同P31_030)
写真裏には「熊本●●●」と記されていますが、残念ながら文字の判読ができず…。
しかしこちらは熊本県庁舎のようです。


熊本第五高等学校(同P31_096)



さて、九州から北陸へ…

加賀山城温泉場(同P31_028)


加賀国山城温泉 倉屋(同P31_070)


加賀国大聖寺川上流(同P31_076)


加賀●大聖寺川上流に架かる蟷蟀橋(同P31_071)
「蟋蟀(こおろぎ)橋」の誤りのようです。


金沢兼六公園内霞ケ池(同P31_078)


金沢尾山神社(同P31_085)


別格官幣社 藤島神社(福井県)(同P31_029)
写真裏には「藤嶌神社」と記されています。鳥居の扁額は「藤嶋神社」となっていますね。


杉津(福井県)(同P31_032)
写真裏には「越前国杦津」とあります。


金ヶ崎宮(福井県)(同P31_083)



前回もご紹介した彦根の写真もあります。

彦根旧城(同P31_077)


彦根楽々園(同P31_079)



そして箱根のお写真も一枚。

箱根八里(同P31_089)



長くなりましたので、撮影地の特定できないお写真につきましては「その2」に続きます。



■参考資料
『紫草遺稿 乾・坤』津枝謹爾編、芝川得々発行、昭和9年


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各地名所写真3 その2

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「その2」では、撮影地の特定が難しい写真をご紹介します。




福住橋(同P31_057)
橋の親柱から橋の名称がわかります。同名の橋が徳島県にあるようなのですが、果たして…?


(同P31_064)
写真裏には「唐人町」とありますが、どこの「唐人町」なのか、詳細はわかりません。


坪井乃流(同P31_072)
熊本の坪井川でしょうか。




そして以下は詳細不明の写真群となります。


(同P31_025)


(同P31_026)


(同P31_027)


(同P31_035)


運動会でしょうか(同P31_036)


(同P31_037)


(同P31_042)


(同P31_044)


(同P31_046)


(同P31_047)


(同P31_048)

(同P31_049)


(同P31_050)


(同P31_052)


(同P31_053)


(同P31_055)


(同P31_056)


(同P31_059)


(同P31_061)


(同P31_062)


(同P31_063)


(同P31_068)


(同P31_069)


(同P31_075)
※古写真にお詳しい村上忠男氏より「箕面の滝ではないか」とのご教示をいただきましたので追記いたします。


紀念碑(同P31_081)


写真裏の文字。「武雄(佐賀県)」でしょうか…?(同P31_082)


(同P31_084)


(同P31_090)


(同P31_091)


(同P31_092)


(同P31_093)


(同P31_094)


(同P31_095)


枚数が多いため非常に長い記事となってしまいました。
おつきあい下さった皆様、ありがとうございました!


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各地名所写真2 追記

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「各地名所写真2」に掲載された撮影地不明の写真について、古写真に大変お詳しい村上忠男氏から貴重なご教示をいただきましたのでご紹介いたします。


まずはこちらのお写真。

(千島土地株式会社所蔵資料P27_003)
長田神社(兵庫県神戸市)に似ている。


(同P27_008)
知恩院(京都)の御影堂と経蔵ではないか。


(同P27_009)
神戸停車場(神戸駅)に線路、ホームの配置が似ている。


(同P27_010)
堂島浜通にあった「大阪尋常中学校」(現・北野高校)
大阪尋常中学校は、この写真の撮影者・又三郎の母校でもあります。(明治24年入学、明治29年卒業)
なお、年譜*)によると明治27年に「写真術を葛城思鳳に問ふ(「思風」の誤りと思われる)」とありますので、在学中に撮影した写真なのかも知れません。


(同P27_011)
神戸・和田岬に明治23年に開設した遊園地「和楽園」。
奥に見える円形の建物は、勝海舟設計による砲台(現存)


(同P27_013)
「大阪偕行社(かいこうしゃ)」
旧陸軍将校の親睦と軍事研究のための組織。明治10年に東京で設立され、以後全国各地に設立されました。
なお大阪偕行社は私立小学校「大阪偕行社付属小学校」を付属し、これが戦後「追手門学院小学校」となりました。


(同P27_012)

(同P27_032)
神戸の湊川の風景に似ているとのこと。
現在、湊川は埋め立てられ、新開地となっています。


(同P27_016)

(同P27_035)
神戸布引の滝(雌滝)


(同P27_025)

(同P27_026)
堂島紡績
明治28年に日本紡織会社に合併された直後、失火により全焼しました。


(同P27_029)
神戸・舞子浜の松林に雰囲気が良く似ているとのご指摘をいただきました。


(同P27_038)
明石城跡(明石公園)


(同P27_031)
尻無川かも…?


(同P27_039)
唐崎の松(滋賀県)かも…?


こちらには掲載しておりませんが、いずれにも村上氏お手持ちの資料写真を添えて下さっており、とてもわかりやすく拝見させていただきました。ご教示本当にありがとうございました!



*)「紫草年譜」:『紫草遺稿 乾』に掲載


■参考資料
『紫草遺稿 乾・坤』津枝謹爾編、芝川得々発行、昭和9年
『ケース・スタディー 日本の企業家群像』法政大学イノベーション・マネジメント研究センター 宇田川勝編、2008年



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村山龍平と芝川家

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2018年3月に「中之島香雪美術館」がオープンし、香雪翁こと村山龍平氏への関心が高まっています。

様々な大阪実業界の実力者と交際があった芝川家ですが、村山氏とは特に懇意だったようで、初代又右衛門(又平)、二代目又右衛門の2代にわたり、共に様々な事業に取り組んだほか、茶道を通しての親しいお付き合いがありました。

この機会に両者の関わりを詳しく見ていきたいと思いますが、まずは『村山龍平伝』から、村山氏と芝川の出会いのエピソードをご紹介いたします。


『村山龍平伝』によると、村山氏と芝川家(初代又右衛門)の最初の接点は、伊勢度会郡田丸の士族であった村山氏が、明治4年に大阪に移住し、裸一貫で西洋雑貨商を始めようとした時のこと。当時貿易商として成功していた初代芝川又右衛門を訪ね、取り引き等についての指導を受けたといいます。


この時、龍平は別段予て知り合いの間柄でもなく、また誰の紹介によって会ったのでもなかった。突然訪ねて行き、ただ「自分は伊勢から出て来て今度新たに洋物屋をやるのだから、よろしく頼む。また何か心得になることでもあれば聞かせてほしい」と店先で熱心に、かつ慇懃に挨拶を述べて頼み込んだ。

その率直な態度に芝川又平(初代又右衛門)は大いに動かされた。が、またいかにも武士が急に算盤を持ち替えたようで、商売慣れしていないのをみて、先ず「商売人になるお人柄とはどうも見えない。殊に勝手の分からぬ洋物などの商売は先ず止めた方がよいでしょう」とこれまた率直に忠告した。

しかし一旦決心した龍平は決して人のいったこと位で初志を翻さぬ。「自分は大決心でやり出したのだから、何卒ご迷惑であろうが、ご交際願いたい」と重ねて頼み入れた。

芝川もその熱心な態度に動かされて遂に商品の取引を承諾した。

芝川との交渉の進むにつれて、主人(又右衛門)は段々龍平が夜郎自大の徒に属するものでなく、率直にして分別に富むことを知り、互いに肝胆相照の仲となり、…(『村山龍平伝』より)



これは、嘉永3(1850)年生まれの村山氏が21歳の頃のこと。初代又右衛門は文政6(1823)年生まれですから、村山氏とは親子ほどに年が離れていました。そこへ「アポなし」「飛び込み」で訪ねて来た龍平。

村山氏と芝川の交際はここから始まったのです。



■参考資料
『村山龍平伝』朝日新聞大阪本社社史編修室、1953


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村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易

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■関連記事
村山龍平と芝川家

江戸時代、徳川政権は豊臣秀吉の朝鮮出兵のために断絶した李氏朝鮮との国交を回復し、対馬の宗氏を通じて貿易が行われていましたが、19世紀に入ると、日朝双方の財政難などの理由から幕府と朝鮮通信使の往来は途絶えました。その後、日本では幕府に代わり明治新政権が樹立。明治政府は朝鮮に国交の回復を提案するも容れられませんでしたが、明治8年に江華島事件が起こり、翌9年に日朝修好条規が締結されて釜山、元山、仁川の開港が決まると、にわかに朝鮮貿易への関心が高まります。

こうした社会情勢を見て、朝鮮貿易は将来性が見込めるとの意見が一致した二代目芝川又右衛門、村山龍平、下河辺貫四郎*)の3人は事業を進めるべく共に準備に着手します。

芝川、村山、下河辺は当時25~30歳。意欲に満ちた若手実業家達は、朝鮮貿易に留まらず、先ず釜山に進出した後、元山、ウラジオストクを経て沿海州(ロシア帝国がおいた州)にまで商圏を広げる壮大な計画を立てました。



明治13年3月28日、村山と下河辺は現地調査のため見本品*2)を携え、神戸港を釜山に向け出発します。下関、長崎、五島福江、対馬厳原を経て、4月5日に釜山港に到着。早速、大池忠助*3)や住友支店、協同商会*4)を訪ねて現地の商況を調べますが、期待に反し景気はあまり良くなかったようです。

村山、下河辺は市場調査を行い、手紙で詳細を在阪の芝川に報告。芝川も最寄りの商店に聞き合わせて朝鮮への輸出入品の価格調査を行い、釜山と大阪で情報を密にやり取りしますが、現地の事情が明らかになるほど、先行きは厳しいものでした。

持参した品はなかなか売れませんでしたが、一方で、現地の農産物や水産物は大阪でよく売れたといいます。相当の利益が出る見込みが立ったため、村山、下河辺は一旦帰国して今後の対策を練ることになりました。

そして5月16日に村山、下河辺が無事神戸に到着。次回の渡航に向けて協議を重ねる最中、明治12年1月に創刊した朝日新聞が経営難に陥り、社主であった村山は、朝鮮への渡航か、新聞経営に専心するかの選択を迫られることになります。

熟慮の末、村山は新聞経営への専念を決断し、朝鮮貿易は一旦中止することとなりました。

その後の詳細は不明ですが、芝川、下河辺共に別の事業も抱える中、村山を欠いて朝鮮貿易を進めることは難しかったのでしょう。
明治13年9月の朝鮮の大池忠助との取り引きを最後に、芝川、村山、下河辺で損益を三分し、朝鮮貿易は企画のみで終了しました。


*)下河辺貫四郎:詳しい経歴は不明だが、芝川家の記録によると、芝川家の別家(暖簾分けをした商人)で、朝鮮貿易に取り組んだ際は独立して間もない頃だったという。明治22年、藤田組が児島湾干拓事業に際して岡山出張所を設置した際、同名の人物が所長に就任、明治27年に病死とあるが、関係は不明である。

*2)記録によると、持参した見本品は以下の通り。菰巻酒 25挺、布包洋糸 2個、布包金巾 2個、洋函入寒冷紗 2個、菰包緞通 2個、洋函入雑品 2個、白木函 2個、小桶漬物入 5個。雑品の詳細は不明だが、売れ残り品の目録から、灸籠、二ツ入子菓子容器、吸物椀、横長盆、菓子鉢、丸盆、銘々盆、五ツ入子盆、清長(?)、木鋏、茶出(?)、矢立、花瓶、徳利、小皿、茶碗、下等木地椀、湯呑、丼、手塩皿、一閑張文庫、駿河半紙、鼠青半紙、大半紙、因州美濃、海黄などと推測できる。

*3)大池忠助(1856-1930):対馬出身。明治8年に釜山に渡った朝鮮貿易の先駆者。海運・製塩・水産・旅館業など様々な事業を興し、「釜山の三富豪」の一人と言われた。

*4)協同商店:大阪協同商会か。藤田伝三郎や中野悟一らにより設立された貿易商社。



■参考資料
『村山龍平伝』朝日新聞大阪本社社史編修室、1953
『投資事業顛末概要二 堂島米商会所、朝鮮貿易』津枝謹爾編纂、昭和8
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
佐藤英達『藤田組の発展 その虚実』、三恵社、2008
『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004


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村山龍平と芝川家3 大阪共立商店

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■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易


明治12(1879)年、二代目芝川又右衛門、村山龍平ほか大阪の実業家9名が発起人となり、「大阪共立商店」を創設しました。

大阪共立商店は、明治11(1878)年に日本に紹介された英国の「協力商店(Co-operative Store)」にならった消費組合で、当時、「会社」や「商社」と称して資金を募り、出資者をだまして損害を負わせるケースが続出していたため、こうした組織の健全性・正当性を広く社会に喧伝(けんでん)しようと設立が企図されたものです。
消費組合としては、同年に設立された東京の「同益社」に次ぐ、全国で二番目の設立でした。

広く一般から募集した社員(株主)の出資金をもとに日用雑貨をまとめて購入し、相場に即して社員に販売する方式で、取扱商品は、日常生活に不可欠な米、薪、炭の3品に絞り込み、社員には、これら3品について、自ら使用する分は必ず共立商店から購入することが義務づけられました。

大阪共立商店は営業開始と共に大きな反響を呼び、続々社員加盟の申し込みがありました。
このため、米、薪、炭を取り扱う商人が脅威を感じて大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)に共立商店の解散を求めたこともあったと言います。

明治13(1880)年には相当な利益があり、社員数も230名に及んだとされていますが、その後の消息は明らかではありません。
恐らく、この時期の他の消費組合と同様、数年で消滅したのではないかと考えられますが、大阪共立商店は、後に全国津々浦々に設立された消費組合(戦後の消費生活協同組合)のさきがけとなりました。


■参考資料
『村山龍平伝』朝日新聞大阪本社社史編修室、1953
『大阪府生活協同組合連合会50年史』大阪府生活協同組合連合会、2004


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村山龍平と芝川家4 三平舎(三平株式会社)

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■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易
村山龍平と芝川家3 大阪共立商店


大阪で硝子商を営んでいた平栗種吉は、当時輸入品であったランプのバーナーを国産化しようと思い立ち、1880(明治13)年、岡本清忠、阿部平兵衛の3人で「赤心社」を設立。平栗宅でバーナーの製造を開始しましたがたちまち資金的に行き詰まり、旧知の間柄である村山龍平に援助を求めます。

村山から赤心社への資金援助の相談を受けた芝川又平、又右衛門父子は、その事業が有望であると判断して出資を決意し、平栗、村山と共同で事業に取り組むことにしました。


バーナー製造のための仮約定書(千島土地株式会社所蔵資料B01_193_001)

赤心社は1880(明治13)年、大阪市北区中之島のかつて日出(ひじ)藩の蔵屋敷だった建物*)を借り受けて工場を移転。翌1881(明治14)年には、村山龍平、平栗種吉、芝川又平の姓名の中から「平」の1字をとって工場名を「三平舎」と改称し、同年9月には、西成郡曽根崎村(現・大阪市北区)の芝川家所有地に工場を新築・移転しました。

三平舎の製品は、当初こそ外国製品と比べて技術が未熟で、製造コストも割高だったことから経営は困難を極めたものの、新しい機械の導入や職人の技術の熟達によって製品の原価引き下げに努めた結果*2)、数年後には低価格で販売できるようになり、輸入品を駆逐するまでになりました。*3)

三平舎は、大阪・東京をはじめとする国内各地はもとより、中国最後の統一王朝である清国にも販路を拡大し、着実に成長を遂げていきます。1889(明治22)年には清国向けに黄銅製ボタンの製造・販売も手がけるようになったほか、従来の匿名組合から資本金5万円の「有限責任三平社」に組織を改め*4)、さらに1897(明治30)年には、資本金を15万円に増資して「三平株式会社」(以降、三平社)となりました。


三平株式会社ガスバーナーラベル(同)

以後も三平社は、火災による工場消失といった苦難を経ながらも業績を伸ばし、紡績会社を除けば大阪府下で最大の職工を抱えたといいます。1903(明治36)年には成績優秀な模範工場であるとして、宮内省から廣幡忠朝侍従の工場視察を受けました。


侍従視察の際に作成、献上された「三平社事業概要」の写し(同B01_194_002)

1912(明治45)年、三平社は資本金を50万円に増資して同業者を買収・合併します。ここにおいて、村山氏と芝川又右衛門は相談役に退き、事実上、会社の経営からは手を引くことになりました。*5)

その後も三平社は増資を重ね、1917(大正6)年には、ついに資本金を100万円として事業のさらなる拡大を図ります。しかし、ランプのバーナーは徐々に時代遅れの製品となり、需要が減少していきます。電球や自転車バルブの製造にも着手し、それなりの業績を上げますが、景気の低迷もあって経営の好転を果たすことはできませんでした。1929(昭和4)年には電球部を売却して社名を三平金属工業株式会社に変更しますが、翌年、ついに廃業することになりました。


三平株式会社営業報告書(同B01_229_041ほか)


*)中之島4丁目5番地(現在の関西電力株式会社本店ビルの南側付近)の蔵屋敷を高瀬田鶴から借り受けたとある。

*2)明治20年に三平社の製造能力は創業時の25倍以上になっていたという。

*3)創業当時、バーナー1ダースの輸入価格が1円10銭余りであったのに対し、三平舎の製造原価は1円20銭だった。努力の末、これを30銭の低価格で販売するまでになるが、その後の同業者との競争の激化で18銭にまで値下げせざるを得なくなったという。明治20年には同業3社と共同販売店を設立し、値崩れ防止に努めた。

*4)三平舎は設立後しばらく決算を行わなかったが、従来の匿名組合の組織変更を検討するにあたり、明治22年にこれまでの総決算を実施し、その際の5万円の利益を資本金として有限責任三平社が設立された。

*5)1922(大正11)年に村山、芝川は相談役を辞任した。 


■参考資料
『村山龍平伝』朝日新聞大阪本社社史編修室、1953
『投資事業顛末概要八 三平株式会社』津枝謹爾編纂、昭和8
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)


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村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社

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■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易
村山龍平と芝川家3 大阪共立商店
村山龍平と芝川家4 三平舎(三平株式会社)


二代目芝川又右衛門は、堅実な貯蓄法として植林事業に着目していましたが、植林は門外漢が簡単に取り組めるような事業ではないため、折々に山林経営者から話を聞いたり各地の山林を視察したりといった準備を進めながら機会を待っていました。


売込十来ノ他人山林図(千島土地株式会社所蔵資料G00331)
他所より売り込まれたと思われる山林に関する資料。和歌山や奈良吉野のものが多く見られる。

1895(明治28)年頃のこと、懇意にしていた村山龍平を介して奈良県出身の代議士・植田理太郎から山林の買収話が持ち込まれます。山林は、和歌山県日高郡龍神村(現・田辺市)および寒川村(現・日高川町)の両村にまたがる、総面積が1,135町歩(11,236,500㎡)にも及ぶものでした。

この頃には既に山を見る目が養われていた二代目又右衛門は、そばに日高川が流れており、伐採した木材をいかだにして下流まで運び出せることに着目し、買収の話に応じます。


日高郡龍神村山林買得及び一件書類より小川山図面(同G00327)

1896(明治29)年、植林を行って計画的に伐採した木材を売却することで、長期的に利益を得ることを目的とする「大阪殖林合資会社」を設立。村山、植田に大阪の実業家である外山脩造を加えた4名による組合形式で経営することとしました。


大阪殖林合資会社契約証書(同G00332)
出資者に名前のある外山秋作は外山脩造の長男。『芝蘭遺芳』によると、外山秋作は会社設立後、田辺と南部(みなべ)の間の小部落に移住して明治38年まで事業を監督した。

1907(明治40)年には、専門家による事業調査書と意見書に基づいて原生林の伐木事業を開始することを決定し、翌1908(明治41)年に道路の掘削や作業小屋の建設などの準備工作を進めたうえで、木材の伐採に着手しました。伐採された木材は、質の良さと独自に改良した伐木法が材木商の間で好評を博し、高い値段で取引されたと言います。 




渡辺貞臣「小川山伐木事業調査書」(上・同G00340)と滋賀泰山林学博士による「森林施業意見書」(下・同 G00329)
渡辺貞臣は明治45年から大阪殖林合資会社の理事となり、御坊に移住したということ以外詳細不明。
滋賀泰山は1854(安政元)年に愛媛に生まれ、東京開成学校で鉱山学を履修した後、ドイツに留学して林学を学んだ。


小川山林産標本(同G00723)

一方、植林事業は1912(大正元)年度から毎年26町5反(262,350㎡)ずつ進められました。その後は年を追うごとに山林の手入れと植林、伐木で多忙を極めるようになり、1919(大正8)年には一部の木を立木のまま売却することもあったといいます。

その後も事業は順調に推移し、1920(大正9)年には増資も行いましたが、村山が死去した翌年の1934(昭和9)年に、二代目又右衛門は大阪殖林の事業から撤退しました。

大阪殖林は、1975(昭和50)年に住友林業株式会社に株式が譲渡された後、1987(昭和62)年には吸収合併されました。


■参考資料
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
飯塚寛「松野礀と滋賀泰山」、『森林計画学会誌32』、1999


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追記・村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社 経営地写真

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前回記事(村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社)で、芝川家と村山龍平氏との共同事業である「大阪殖林合資会社」について書きましたが、社内にはこの経営地に関する写真アルバムも残されています。今回はアルバムの写真をご紹介しながら、経営地の様子を見ていきたいと思います。



社内のアルバムの写真が撮影された時期は不明ですが、大正あるいは昭和初期に撮影されたものではないかと思われます。撮影したのは芝川本店の社員で、業務というより視察を兼ねた社員旅行のような形で訪れたようにも見えます。

ルートは以下の通りです。



高野山大門にて(千島土地株式会社所蔵資料P42_002)
いざ出発!


新子渓谷(同P42_022)


新子の村を望みて(同P42_039)


新子 橋本旅館前(同P42_025)


護摩壇山へ向かって(同P42_006)
皆さん軽装だと思ったら…お荷物、持っていただいていたんですね。
ちなみに全員分の荷物を持って下さっているのは「人夫の小川氏」だそうです。
これだけの荷物を持って山を登るなど、都市生活者にはきっと真似できません。


笹ノ茶屋(同P42_027)


護摩壇山 頂上にて(同P42_009)


小森にて(同P42_011)




龍神温泉(上:同P42_023、下:同P42_013)


枯れ木の間より十津川を眺む(同P42_031)




小川山、龍神間の橋(上:同P42_029 下:同P42_026)
この橋、特に下の橋のなんとスリリングなこと!とても私は渡れません…。

いよいよ経営地に近づきます。



小川山の人家(上:同P42_014 下:同P42_050)


小川山の人々(同P42_016)


事務所(同P42_048)


小川山谷間(同P42_051)


小川山(同P42_053)


小川山 手入れ(同P42_057)






(上から:同P42_052、P42_055、P42_059)

経営地の山中はまさに道なき道で、うっかり入ると間違いなく迷ってしまうでしょう。
植林事業は、山、そして山の木を知り尽くした「山人」と呼ばれる現地の人々があってこその事業であったことを痛感します。



さて、これらの写真が撮影されるより前、会社設立後間もない頃に、社主である二代目芝川又右衛門が初めて経営地に入山した時の記録を最後にご紹介いたしましょう。

和歌山まで汽車にて、それより海岸を人力車にて走り、途中湯浅に一泊し、翌日、南部在の外山宅(南部に滞在し現地を監督した社員・外山秋作の家)に着せり。翌日、加藤助次郎なりしか、大和の山林家なりという者一人加わりて案内者となり出発せり。翁(芝川又右衛門)は駕籠にて、他は徒歩にて途中ある一小部落に一泊して入山せり。着山後に植林地を一見し事務所まで下りしに天気模様急に険悪となりければ、山に一泊の予定を変更し、休憩の後、早々帰途に就き、夕暗迫る頃ある一部落に一泊して外山宅へ帰り、また一泊の上出発帰途に上り再び湯浅に一泊して帰れり。
<中略>
この頃は事業着手後日尚浅く、何ら見るべき事績もなかりしが、途中にて山の稼ぎ人達が土下座して低頭平身して出迎え居りたりしには真に一驚を喫したり。山林巡視の際、山人は翁を背負わんとして背を翁に向け、如何に翁の辞するも聞かず、翁も否み兼ね彼等の好意を容れ、負われて山に登り巡視せり。(『芝蘭遺芳』p.321-322より)

これら資料に見られる山へ至る道、山そして山で暮らす人々の様子に、隔世の感を禁じ得ません。


■参考資料
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「店員生年月日調査表」、『大正15年度芝川店書類仮綴』(千島土地株式会社所蔵資料G00963_336)
『雇人証書』(同G01109)


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